松本:いやあ、早くても遅くてもあれは名曲ですよ。
中川:そのコンペでボツになった加瀬さんの曲に松本さんが詞をつけた「燃えつきた二人」が、ジュリーのアルバム『いくつかの場面』に入っています。この詞を大野さんのメロディーで歌ってみましたよ。
松本:歌った!
中川:そしたら、やっぱり詞と曲が合いますね。
松本:僕は24歳の駆け出しのころから「コンペならやりません」って。
大野:えらいね、それは。
70年代の歌謡界は阿久悠の独壇場だった。
71年に尾崎紀世彦「また逢う日まで」がレコード大賞を受賞。76~78年には、都はるみ「北の宿から」、沢田研二「勝手にしやがれ」、ピンクレディー「UFO」で同賞を三連覇している。
77年のオリコンのシングル盤トップ30を見ると、ピンク・レディー「渚のシンドバッド」「ウォンテッド」、森田公一とトップギャラン「青春時代」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」など11曲を阿久作品が占めている。この年、松本作品は1曲も入っていない。
中川:ジャスラックに登録された阿久さんの曲は3143曲。そのうち大野さんが作曲したのは180曲。その中の45曲がジュリーです。松本さんは、70年代の阿久―大野コンビをどう見ていましたか。
松本:悔しかったですよね。嫉妬するくらい(笑)。僕、ジュリーの一連のヒット曲は大好きですよ。ジュリーの全盛期に彼のフルアルバムをつくりたかったんです。
中川:阿久さんは同時期に都倉さんと組んでピンク・レディーを売り出したり、筒美京平さんと岩崎宏美さんの曲をつくったりしていたわけですが、そのへんを大野さんはどうご覧になっていましたか。
大野:他の人の仕事にはあまり関心なかったですね。ただ、山口百恵を手がけていた宇崎竜童さんのことは意識しました。同じミュージシャンという点で。
松本:大野さんはバンドもやっていたから、きつかったでしょうね。
大野:地方公演も多いうえ、沢田はアルバムを1年に2枚も出していましたからね。地方のホテル、移動中の車、スタジオの前で書くこともありました。わりと早くつくれる方なんですが、「勝手にしやがれ」だけは、収録の前日まで詞とにらめっこしていましたね。「行ったきりならしあわせに~」という部分からつくろうか、なんて考え込んで。夜になって、あのイントロがフッと浮かんだんです。奇跡的に。
松本:すばらしい。
大野:「サムライ」はもっとスリリングでした。ジュリーがヨーロッパに行く前日、カセットとギターでいい加減につくったメロディーを示して、歌だけを収録して後で完成させた。