遠藤賢司の訃報を知ったのは10月25日夜だった。がんを公表し、闘病と音楽活動を並行していた彼は、体調不良を理由に同19日の大阪公演を中止していた。彼のデビュー・アルバム『niyago』が再発売される予定もあったから、久々に連絡を取りたいと思っていた矢先だった。
日本初のインディーズレーベルとも言われるURCレコードの旧譜が7月以降、「アナログ復刻シリーズ」としてレコードとカセットで順次発売されている。その第3弾(11月15日発売)の一つに『niyago』が決定していたのだ。
遠藤賢司の『niyago』は1970年の発表。そのディレクターを務めたのは、当時、アート音楽出版に勤務し、URCの制作も担当していた私だ(私のミスで、ドラムスの松本隆のクレジットを逸したため、私の名の上に張り付けることになった。結果、アルバムに私の名はない)。
遠藤賢司と出会ったのは68年8月、京都であった第3回フォーク・キャンプだった。関西を拠点にしていた高石友也、岡林信康のほか、東京から小室等率いる六文銭、高田渡、南正人らも参加。遠藤賢司もその一人で、大きな衝撃をもたらした。生ギターの弾き語りながら、その作品、歌唱、演奏はフォークの域から逸脱した型破りなものだった。
それから彼との交流が始まった。米英の最新のポップス、ロックへの興味や関心が共通していた。交流を深めるうち、彼の個性的な作風やギター演奏が生まれた背景を知った。
ギターを手にし、オリジナルを手がけるようになったのは、ボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」がきっかけだ。しかし、ディランのスタイルをそのまま模倣することはなかった。他人の歌をコピーするよりも“自分に伝わる自分の音、自分の歌”を手がけたいとし、様々な音楽への興味と関心から得たものを反映した独自のスタイルを追究していた。
激しく、叫ぶような歌唱は、ドアーズのジム・モリソン、叙情的な作風やフィンガー・ピッキングによるギターのつまびき、やさしく語りかける歌唱はドノヴァン。ブルース・ロックへの関心から、ブギやブルースの要素も作品に反映させていた。