山野正義(やまの・まさよし)(右)/1936年、東京都生まれ。55年、学習院大学から米国に留学。ウッドベリー大学で博士号を取得。94年山野学苑の学苑長、2013 年に総長に就任。山野美容芸術短期大学を創設するなど、美容と福祉を中心に、教育、研究、実践を行う。11年、フランスの国家功労勲章コマンドゥール受章、12年、旭日小綬章、フランス芸術文化勲章オフィシエ受章。一般財団法人美齢学ジェロントロジーセンター理事長を兼務。17年、大阪大学大学院国際公共政策研究科の招へい教授。山野栄子ダイアン(やまの・えいこ・ダイアン)(左)/1940年、米国カリフォルニア州生まれ。太平洋戦争中、幼少期の1年を日系人強制収容所で過ごす。サンタモニカ大学で看護学を学び、卒業後、創設から間もないロサンゼルスのヤマノ・ビューティカレッジに入学。美容師の資格を取得し、ビバリーヒルズの高級美容院でカラースペシャリストとして人気を博す。2013年、山野学苑学苑長に就任。(撮影/写真部・大野洋介)
山野正義(やまの・まさよし)(右)/1936年、東京都生まれ。55年、学習院大学から米国に留学。ウッドベリー大学で博士号を取得。94年山野学苑の学苑長、2013 年に総長に就任。山野美容芸術短期大学を創設するなど、美容と福祉を中心に、教育、研究、実践を行う。11年、フランスの国家功労勲章コマンドゥール受章、12年、旭日小綬章、フランス芸術文化勲章オフィシエ受章。一般財団法人美齢学ジェロントロジーセンター理事長を兼務。17年、大阪大学大学院国際公共政策研究科の招へい教授。
山野栄子ダイアン(やまの・えいこ・ダイアン)(左)/1940年、米国カリフォルニア州生まれ。太平洋戦争中、幼少期の1年を日系人強制収容所で過ごす。サンタモニカ大学で看護学を学び、卒業後、創設から間もないロサンゼルスのヤマノ・ビューティカレッジに入学。美容師の資格を取得し、ビバリーヒルズの高級美容院でカラースペシャリストとして人気を博す。2013年、山野学苑学苑長に就任。(撮影/写真部・大野洋介)
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 母・山野愛子さんから引き継いだ学校法人・山野学苑をさらに発展させた総長の山野正義さん。日系3世の妻・ダイアンさんとの出会いとは?

*  *  *

夫:僕は18歳のときアメリカに留学して、大学卒業後は保険のセールスで全米トップクラスの成功を収めました。そして1961年にロサンゼルスのウィルシャー通りにヤマノ・ビューティカレッジという美容学校を創設しました。東京でいうと銀座の中央通りのようなところです。

妻:私は父に連れられて、その学校を見学に行きました。美容師の叔母がいて、彼女がお客さんをきれいにしていくのに憧れていたんです。でも、周りの人から教師のような仕事についたほうがいいと反対され、まずは大学で看護学を勉強しました。卒業後、ヤマノに1年間通って、美容師の資格を取りました。

夫:あるとき仕事でビバリーヒルズの大きな美容院を訪ねました。目に入ってきたのがテキパキとお客さんに応対するダイアンの姿です。ひとめぼれでした。

妻:スティーブ・マックイーンやレーガン元大統領の奥さまなど、有名な方が通う美容院でした。

夫:聞くと僕の学校の卒業生だという。ジーッと見ていると、白衣の左右のポケットがチップで大きく膨らんでいます。「この人と結婚すれば食いっぱぐれることはない」と思いました。

妻:私は、出会ったときのことはあまり覚えていないんです。

夫:ところが、デートに何度誘っても断られるんですよ。当時の私は自家用飛行機も持っていたから、なぜ断るんだと思いました。何度電話しても、会いに行っても答えはノーでした。

妻:私は日系3世なので、当時は日本語がよくわかりませんでした。「お嬢さん」と呼びかけられても、「私は社長です」と言われても、意味がわからなくて……。それに私にとっては父がいちばんでしたから、興味がなかったんですね。

夫 彼女は戦時中、日系人の強制収容所に入れられて、日本語の使用を禁じられていたこともあるんです。結局、デートしてくれるまでに1カ月以上かかりました。OKしてくれたのはハンサムだったから?

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