西洋医学だけでなく、さまざまな療法でがんに立ち向かい、人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱する帯津良一(おびつ・りょういち)氏。帯津氏が、貝原益軒の『養生訓』を元に自身の“養生訓”を明かす。
* * *
【貝原益軒 養生訓】(巻第一の1)
人の身は父母を本(もと)とし、天地を初(はじめ)とす。
天地父母のめぐみをうけて生れ、
又養はれたるわが身なれば、わが私の物にあらず。
養生というと健康で長生きするための方法だと思われがちです。しかし、本来、養生とは「生命(いのち)を正しく養う」ということなのです。つまり、生命のエネルギー、いわゆる生命力を高めるのが養生です。身体を労(いたわ)って病(やまい)を未然に防ぎ天寿をまっとうするというのは「守りの養生」です。ひるがえって本来の養生は、日々内なる生命エネルギーを勝ち取り、まさに最期に死ぬ日に最高に持っていくという「攻めの養生」なのです。私は自分が診ている患者さんに「エネルギーを加速して死後の世界に突入してください」と話しています。攻めの養生は長く生きることではなく、来世への展望を踏まえたものだと、私は思っているのです。
貝原益軒の養生訓は、食養生や性養生の教えがよく広まっているせいか、健康や長生きの方法を説いたものだと見られがちです。私も実は、益軒の養生訓は「守りの養生」で自分が考える養生とは違うと思っていました。ところがよく読んでみると、大きな間違いでした。益軒はまさに「攻めの養生」を語っているのです。
養生訓は一巻から八巻まであります。一巻と二巻の総論には養生とは何なのか、益軒が本当に言いたいことが書かれています。三巻以降は養生の具体的な方法です。一、二巻が幹の部分、三巻以降が枝葉の部分といえますが、枝葉ばかりが注目されがちなのです。
だから、わが父母と母なる天地に感謝の意をささげながら、人としての道を歩んでいくことこそ、養生であると益軒は言います。そのために長寿や無病が必要とされるのであって、それ自体が目的ではないと語ります。益軒は養生訓でたんに健康法を言うのではなく人の生きる道を説いているのです。
養生を生きる道としてとらえたときに、私が思い浮かべるのはH・ベルクソン(1859~1941)の『創造的進化』です。ベルクソンはこの著書で「生命の躍動(エラン・ヴィタル)」が創造的進化をうながすと語っています。生命の躍動によって、内なる生命エネルギーが煮えたぎり、それが体の外にあふれだすと、私たちは歓喜に包まれるというのです。その歓喜はただの快楽ではなく、創造を伴っているというのです。生命の躍動、歓喜、創造。まさに「攻めの養生」です。益軒の養生訓と相通じるものがあります。
※週刊朝日 2017年4月14日号