戦乱を治め、260年余の世界でも例を見ない平和な時代をもたらした徳川家康。現代の経済的繁栄と文化の源泉ともいえる江戸時代を築いた家康は、いわば「日本人の恩人」ともいえる武将だが、なぜか織田信長、豊臣秀吉らほかの戦国武将ほど人気があまりない。
2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」でも、家康は真田幸村の敵役として、「忠臣蔵」の吉良上野介に匹敵するような、狡猾な武将として描かれていた。それはいったいなぜなのか。
源義経、信長、秀吉、幸村など日本人が好きな武将を、「戦場で華々しく活躍する英雄」「志半ばで散っていく悲劇の英雄」「立身出世する英雄」というタイプに分類することができるが、家康はそのどれにも当てはまらない。そればかりか、大坂冬の陣・夏の陣などでの家康の政治手腕には、「狡猾」「ずる賢い」イメージが付きまとっている。歴史家の山岸良二氏は、「日本人は元来、成功者に対して、〈や〉っかみ、〈ね〉たみ、〈そ〉ねみを抱く、〈ヤマト〉ならぬ〈ヤネソ〉民族。そのため、〈目的のためには手段を選ばず、結果として目的を達成した〉家康に対して〈嫉妬心〉や〈単純に好きになれない複雑な気持ち〉にかられてしまう」と分析している。
そんな家康のイメージを変革しようとしたのが山岡荘八だ。その26巻に及ぶ長編『徳川家康』で、「戦のない世をつくろうと真摯に努力する家康」というイメージに書き換えようとした。山岡のその目論見が功を奏したかどうかは不明だが、山岸説の家康が嫌われる最大の理由が、天下統一という「大偉業」達成への「嫉妬」だとしたら、「平和希求」の大衆感情との整合性をどう解釈すべきなのだろうか。
徳川宗家18代当主、徳川恒孝さんはこう語る。
「徳川家の願いはただ平和のみです。それは260年の間、一度も戦がなかったことが証明しています」
そんな家康と日本刀との関わりで、いちばん多く語られてきたのは「村正」との因縁、つまり「妖刀村正伝説」だ。家康の祖父の清康と父の広忠は、共に家臣の謀反によって殺害されたとされ、どちらの凶器も村正の作刀といわれる。