ドラァグクイーンとしてデビューし、テレビなどで活躍中のミッツ・マングローブさんの本誌連載「アイドルを性(さが)せ」。今回は、「LGBT」について。
* * *
物事なんでも勢いがある時には、同じ分だけ逆風が吹くのが世の常です。ここ数年来の日本におけるLGBTに関する機運も、世界の流れに後押しされつつ、長年の努力と忍耐がようやく実り始めた結果の「現在地」なわけですが、それまでずっと有耶無耶にしてきたものを、いざ真っ当に扱うというのはエネルギーの要ること。だからこそブレーキを踏む側も、いつも以上に強めに踏んでくる。この応酬も言わば革命には不可欠な議論のひとつなのだと思います。
私のような同性愛者を含む「性の少数派」を、近年は「LGBT」と呼ぶようになりました。世間一般から見れば十把一絡(じゅっぱひとから)げであっても「それぞれ特性や属性や主張が異なりますよ」と細分化した上で、その頭文字を再び並べるという、よく分からないプロセスを経て生まれたこの言葉。具の多いサンドイッチみたいで個人的にはまだ慣れませんが、メディア用語になったことで一気に浸透しました。
で、此度の首相秘書官によるオフレコ失言をきっかけに、「LGBTへの差別を減らし理解を深めることを促しましょう」という法案の整備に向けた動きが高まり出しています。昔から日本は、「三歩進んで二歩下がる」という歌があるように、変革に対して謙虚かつ慎重です。それはそれで重んじるべき精神であり、なんでもかんでも欧米の流行りに乗っかる必要もないとは思います。ただ、とりわけ政治的な側面において日本という国は、自らの意思で判断・決断する能力が著しく欠けているのも事実です。明治維新の開国も戦後の民主化も、外からの力によって半ば強制的に変化を遂げてきた歴史があります。
無論、私は民主化後の日本に生まれ、今まで不自由なく生きてこられたわけですから、その歴史はもとより、この国の主体性・柔軟性・順応性には感謝して然るべき世代です。故にこのLGBTに関しても、最終的には欧米の潮流に押される形でしか変容できない様(さま)に、若干の不甲斐なさを覚えながらも、「これが日本の政治なのかな」と納得している自分がいます。「当事者のくせに贅沢言ってるんじゃねえ!」と窘められそうですが、当事者だからこそ「自国で(ある程度の)答えを導き出してほしい」と思うのと、あんな暴言まがいの失態をもって「機が熟した」とされてしまうのは、どうにも情けない上に先が思いやられるのが本音です。