葉室麟(はむろ・りん)/1951年、福岡県出身。地方紙記者などを経て、2005年に「乾山晩愁」で歴史文学賞を受賞し、作家デビュー。近刊に『辛夷の花』『津軽双花』など。4月から小誌で「星と龍」を連載開始予定。久留米市在住(撮影/撮影・加藤夏子)
葉室麟(はむろ・りん)/1951年、福岡県出身。地方紙記者などを経て、2005年に「乾山晩愁」で歴史文学賞を受賞し、作家デビュー。近刊に『辛夷の花』『津軽双花』など。4月から小誌で「星と龍」を連載開始予定。久留米市在住(撮影/撮影・加藤夏子)
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 1作ごとに歴史時代小説ファンを魅了し続ける作家、葉室麟さんの最新刊『風のかたみ』が3月7日に小社から出版された。葉室作品としては珍しい、女性を中心に据えた時代小説。葉室さんにこの本の魅力について語ってもらった。

 葉室作品の中でも『風のかたみ』ほど女性が前面に出てストーリーを形成している作品は初めてではないだろうか。武家社会の中で既存の常識では陰の存在である女性たちが藩に対していかにして意地を貫くのか。謎解きの要素をちりばめたミステリータッチになっている。

 舞台は豊後の安見藩。藩主の一門衆の中でも最も力のあった佐野了禅と息子が上意討ちにあったところから物語は始まる。

 残された妻や息子の嫁2人と孫娘、それに女中3人の女所帯にはどのような処分が出るのか。責任のない女子どもまでみな死ななければならない場合も多かった時代だ。彼女たちの健康管理をするため女医の伊都子が白鷺屋敷に入った。その前で不思議な事件が巻き起こる。葉室さんは言う。

「ぼくはミステリーが好きだった。スー・グラフトンなど海外作家の探偵ものなどをよく読んでいました。森鴎外の『阿部一族』にも上意討ちで一族がみな殺しにされた肥後藩の史実が書かれています。男は建前に忠実に生きたのだから殺されても納得できるでしょうが、罪もない女性まで責任を負わされるのはたまらなかったと思います。そういうシチュエーションの中で女性探偵ものみたいな物語を書いてみたくなった」

 佐野了禅の妻きぬ、嫡男(ちゃくなん)の嫁芳江と娘の結、次男の嫁初など登場する女性の心の変化がうまく捉えられている。佐野家を守るためのいくつもの仕掛け。伊都子には最初は男を惑わす悪女に思えた初だったが、実は……。ネタバレになるから内容を詳述することはできない。ただ、女性の本音が垣間見える。

「女の人の心は実は私にはわからないんです(笑)。時代小説を書いていると、女性の描写に困ることが多い。資料を見ても女の人はほとんど出てこない。家系図でも『女』としか書いてなくて名前さえわからない。しかし、武家社会においても女性は家を命がけで守っていたはずです」

「お家取り潰しの危機の中でどうやったら子どもを守ることができるのか。苦しみ、策を巡らす女性の本音を書いたつもり。次男の嫁の初の揺れ動く女心をどう表現したらいいか。難しかったけれど楽しくもあった。書いていてわかったのは、昔も今も変わらない女性の強さです」

 葉室さんにとって、この小説は51作目。デビューは遅かったが、2007年に『銀漢の賦』で松本清張賞、その5年後の12年に『蜩(ひぐらし)ノ記』で直木賞、そして17年に『鬼神の如く 黒田叛臣伝』で司馬遼太郎賞と、5年ごとに大きな賞を取っている。

 今は連載を6本持つ売れっ子だ。現在、明治期の女学校を舞台にした女性がメインの作品も書いている。

「文藝春秋で『大獄』という西郷隆盛の小説を連載していて政治の堅い話ばかり追っていたので、バランスを保つためにかもしれないが、女性が書きたくなった。なんでそういう気持ちが起きたのか自分でも謎ですが。男はどこまでいっても、建前で生きている。女性は思うように生きられなかった時代ですが、秘めた思いがあったはず。本当の気持ちを隠しながら生きていた。そこを少しでも描けたらいいなと思っています」

 葉室さんは実在の人物を主人公とした歴史小説もいくつも書いているが、今回はすべて架空の人物。

「架空の人物のほうが想像力が思いっきり出せるので私は好きですね。編集者や読者からもそういった注文が多い。揺れ動く女性は好きです。戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』に出てくるロクサーヌの女心なんかも好きでした。なぜ、自分の気持ちに気付いてくれないのか。女心の秘密みたいなものを書いてみたくなった」

 週刊朝日4月14日号(4月4日発売)から新しい連載「星と龍」を始める予定だ。南北朝時代の後醍醐天皇と楠木正成をめぐる物語だ。葉室さんは小説の最初と最後は決めて書き始めるが、途中は迂回(うかい)するという。

「構想は固まりつつあるのですが、うまくいくかどうか。後醍醐天皇の考え方は幕末の思想家にも影響を与えた。難しい対象ですが、日本人の天皇像・天皇論を展開しようとする訳で大いなるチャレンジのつもり。後醍醐天皇が南宋から入ってきた尊王論を日本のものにしていった。日本史のなかの大きな問題なのに南北朝のどちらが正統派なのかに焦点が移ってしまいがちで、これまであまり書かれなかった。資料もあまりない。天皇の姿は時代を追って変わってきています」

週刊朝日 2017年3月24日号より抜粋