吉川英治の『黒田如水』や司馬遼太郎の『播磨灘物語』でもっとも記憶に残るのは、毛利攻めのさなか、本能寺の変で主君織田信長を失って茫然自失する豊臣秀吉に黒田官兵衛が、「主君を殺せし逆賊明智光秀を討ち、天下の権柄を取り給うべき」と語りかける箇所だろう。
秀吉も数刻後には気づいたかもしれないが、「中国大返し」から山崎の戦いに至る最速移動は、官兵衛のそのひと言がなければ実現しなかったかもしれない。それは軍師官兵衛の知恵が、光り輝いた一瞬だ。
そんなエピソードから、「本能寺の変は黒田官兵衛が仕組んだ」などという陰謀説が生まれた。その官兵衛の愛刀は「へし切長谷部」、作刀は長谷部国重だ。
あるとき信長は、無礼な茶坊主を手討ちにしようとするが、男は台所の御膳棚の下に隠れてしまった。さすがの信長も棚の下では刀を振り上げて斬ることができない。仕方なく棚の下に刀を差し入れたところ、たいして力を入れることもなく胴体ごと「圧(へ)し切って」しまったというのが、号の謂(い)われだ。
『享保名物帳』(世に名高い名刀約250口を収録した台帳)では信長から秀吉に贈られ、後に長政に贈られたとされているが、「黒田御家御重宝故実 刀剣の部」には、信長から小寺家所属時代の官兵衛へ直接下賜されたと記されている。いずれにしても、秀吉に伴われて訪れた安土城で信長に毛利討伐の献策を行った褒美として与えられた、というのが史実に近いようだ。
「へし切長谷部」は昭和28(1953)年3月31日に国宝指定。黒田家14代目当主黒田長礼(ながみち)が亡き後は、福岡市博物館が所蔵している。
黒田家16代当主の黒田長高さんが話す。
「官兵衛は長政とは違い、武闘派ではないので刀にはあまり思い入れはなかったと思いますね。ただ、褒美とするなら、知り合ったばかりの官兵衛に名刀を与えたのは信長の器量もありますが、官兵衛が信長からの信頼を勝ち得たからだと思うのです」