作家・北原みのり氏の週刊朝日連載「ニッポンスッポンポンNEO」。性差別的な表現手法について筆をとる。
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むかしから、男の狂気とエロと暴力を描いては「天才」とか「巨匠」とか言われる男性表現者が苦手だった(古い映画から現代美術まで、多すぎて例を絞れません)。女に暴力を振るう一方で、男が人間的苦悩をちらつかせれば、「心の奥底に潜める狂気」「タブーを打ち破った」とかで称賛されるのを、見飽きている。
しかも悔しいのは、そういうエロス&バイオレンス表現に「これって性差別じゃない?」と問おうものなら、「芸術ですけど?」と嘲笑されてしまうこと。だいたいにおいて「表現とは必ず誰かを傷つけるものである」のに、「傷ついた!」などと訴える女は、野暮だとレッテルを貼られてしまう。
「巨匠」ベルナルド・ベルトルッチ監督が、自身の「ラストタンゴ・イン・パリ」(1972)についてのインタビューで、女優に詳細を伝えずレイプシーンを撮影したと語ったことが話題になっている。「彼女(俳優のマリア・シュナイダー)の屈辱を撮りたかった」と監督はインタビューで断言した。
驚いたのは、故マリア・シュナイダーが生前に、このシーンについて語っていたことだ。撮影直前に内容を知った彼女が拒否反応を示すと、共演のマーロン・ブランドが「これは“映画”だよ」と言ったという。当時マーロンは48歳で大スターで、マリアは新人の19歳で、時代は70年代。彼女に何ができただろう。結局マリアはカメラの前に立ち、その後、苦しみ続けた。
今回の騒動を受け監督は、「レイプシーンは合意。ローションの代わりにバターを使ってアナルセックスをすると言ってなかっただけ!」などと言い訳してるが(心からどうでもいい)、マリア自身は「監督とマーロンに軽度のレイプを受けたと感じた」と話していた。
数年前の被害者の告発ではなく、監督の無邪気な武勇伝により、このことは大きな波紋を呼んでいる。その意味を考えながらも、これ、日本だったら、ここまで大きな問題になるだろうか、と考えさせられた。少なくとも、「巨匠」の告白は、私たちの社会にとって既視感がある。
少し古いが全く解決していない問題、90年代に話題になったバクシーシ山下監督の「女犯」を、私は思い出した。男に殴られ、恐怖に怯える女性にゲロを吐きかけるようなドキュメンタリータッチのAVだった。女性は出演を許諾しているが、具体的なシナリオは聞かされていなかった。そして「だからこそ!」、人間のリアルが描かれた!とでもいう調子で、当時、リベラルな言論人はこの「作品」を積極的に「表現」として評価したものだ。
ベルトルッチ監督を「巨匠」にした理屈や、今回の騒動で語られる「言い訳」や、男性表現者の欲望に巻き込まれた女性の思いに誰も注意を払わない様は、あまりにも日本の性表現業界に馴染み深いように私には見える。何年経っても受けた痛みをなかったことにはできない。「ラストタンゴ・イン・パリ」的時代の終焉を期待したい。
※週刊朝日 2016年12月23日号
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