国民的アイドルグループ「SMAP」の年内解散が報じられた。紅白への参加や解散コンサートの告知もなく、5人そろわないまま幕切れとなる可能性が出てきた。去り逝く姿晒すのは最後の務めと、ミッツ・マングローブさんがSMAPに対する率直な思いを寄せた。

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 グループにとってメンバー同士の仲の良さなど、さほど大事なものではありません。むしろ仲など良くなくても、「同じ瞬間にどれだけ同じ方向を向けるかどうか」がそのグループの鋭さや鮮やかさを左右します。

 愛情がなくなった、もっと大事な何かができたというならば、「脱退」をすればいい。しかし、今回SMAPは誰もそれをしませんでした。要するに、SMAP自体に嫌気が差したわけではないが、「同じ方向を向く」ために我慢をしたり、取り繕うことはもうできない。だけどSMAPは捨てられない。そんな堂々巡りを続けている内に、限界の向こう側に行ってしまった末の解散なのだと推測します。これがSMAPでなければ、もっと簡単に脱退も解散も、もしくは妥協もできたはずです。

 ギリギリの関係で28年やってきたからこその「疾走感」と「刹那的な説得力」。そこを誤魔化したらSMAPはアイドルでなくなってしまう。本人たちもそんな「SMAPの神髄」を捻じ曲げてまで、その値打ちや地位を存続させるのは違うと判断したのだと思います。そして、この壮絶な解散劇は、皮肉にもSMAPが、他とは次元の違うアイドルグループであるという事実を改めて証明しました。だからこそ、もっと観ていたかった。この天下が一生続くのか、それともどこかで凋落を迎えるのか、見届けさせてほしかった。

 
 歴史と破綻は常に背中合わせです。そして、破綻する様も含めて、功績や伝説は彩られます。ひとつのアイドルグループが20年以上も天下を取り続けたまま破綻するなんて、間違いなく前代未聞の伝説となるでしょう。世界でも類を見ない、日本のショービジネスならではの執念やこだわり、欲と歪みを、この度のSMAP解散を通して見た気がします。

 それにしても、「死去」以外でこんなにも「人に対する喪失感」を味わうケースがあるのだということに、いちばん驚きました。あの未明のニュース速報は、もはや訃報と同じです。となると、やはり残された者たちには、葬送の儀式が必要です。熱烈なファンではなく、むしろこの時代を生きてしまった世間にとって。言い訳や謝罪ではなく、去り逝くその姿と歌を世間に晒すことこそ、最後の務めではないでしょうか。なぜなら、5人は死んでいないから。

週刊朝日 2016年9月2日号