32年ぶりに五輪出場の切符を手にした水球男子日本代表“ポセイドンジャパン”。マッチョなだけでなく、端正な顔立ちのイケメンぞろいとあって、五輪出場決定後はにわかにメディアでの露出も増えた。かつて水泳連盟のお荷物と揶揄され、マイナー競技として暗い時代が長く続いていたことをご存じだろうか。スポーツジャーナリスト・栗原正夫氏が取材した。
五輪での32年間のブランクは、日本の球技では最長だ。1996年アトランタ五輪と2008年北京五輪は「勝つ見込みがない」と、予選の派遣を見送られた。
前回のロンドン五輪でもアジア枠での出場こそ逃したが、世界最終予選でのチャンスがありながら、「弱すぎる」とそれを辞退する形となっていた。それだけに、リオデジャネイロ五輪出場は日本水球界にとって悲願だった。
リオ五輪出場を決めた後には、支援を申し出る企業が現れ、ようやく「無職」選手がゼロになったとの報道もあった。だが、マイナー競技の水球に多くのスポンサーが集まるわけではない。日本代表といえども、過酷な環境下で競技を続けてきた選手は少なくない。
かつて真冬に室内練習場が確保できず、室外プールで練習することも普通だったという。現在でも社会人チームは新潟県柏崎市を本拠とするリオ五輪代表4選手が所属する「ブルボンウォーターポロクラブ柏崎」が一つあるだけ。
水球は学生スポーツという見方が一般的だ。なぜなら大学を卒業すると同時にほとんどの選手が、プレーを続けることが困難になってしまうからである。「食っていけない」という、経済的な理由が大きい。
主将の志水祐介(27・ブルボンウォーターポロクラブ柏崎)は、これまでオーストラリア、イタリア、ハンガリーなど海外のプロチームでプレーしてきた。それでも満足な報酬は得られず、シーズンオフに帰国した際にはアルバイトしながら生計を立てていたと振り返る。
「プロといってもサラリーはイタリアで月約10万円、ハンガリーで月約6万円程度でした。しかも契約は年の半分。シーズンオフに帰国した際には無給で、2年ほど前まではラーメン屋などでバイトをしていました」