作家・北原みのり氏の週刊朝日連載「ニッポンスッポンポンNEO」。今回は、大学時代の恩師が残した戦争の記録について。
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書棚を整理すると、懐かしい本に再会できる。先日、四半世紀ぶりに大学時代の恩師の本をひらいた。歴史学者の荒松雄先生が1982年に書かれた『インドとまじわる』だ。
ページをめくりながら、驚いた。大学時代に読んだ時と違う本になっていたのだ。数ページではあるけれど、先生が学徒出陣された時のことが記されていた。そして40代の私には、そのことがとても大きく映った。
特に先生が見習士官として就いた初めての任務が、京城の妓楼から出てくる兵隊を監視することだった、と書かれていることに息をのんだ。1943年のソウルだ。2人以上での登楼が軍律で定められていて、荒先生は一人の兵隊を監視したという。前線ではなかった京城にある遊郭は、戦地の「慰安所」とは全く違う雰囲気だったはずだ。どんな女性がそこにいたのだろう、どんなところだったのだろう。
1945年3月に済州島に行った話もあった。沖縄戦の前に、既に済州島での「最後の闘い」が決まっていたのだ。先生の任務は地下壕舎の建設だったが、沖縄の玉砕の報が届いた後は、作業を止め、玉砕に方針が変わったという。
帰国は終戦の年の12月だった。こんなことが記されていた。「済州島の山奥では全く必要がなかった『突撃一番』の大包み」を本部から手に入れ小隊内で配った、と。そしてこれが「浅草の闇市で高い値で売れ、復員後の乏しい本代を少しばかり潤してくれた」と。
突然の日韓「合意」により、「慰安婦」問題は解決されたかのように語られる。当事者が不在であっても、「当事者にも色々いたのだから」「終わらせたい被害者もいるのだから」「日韓、新しい時代を迎えよう」というような調子で、「和解」とは日韓の痛み分け、であるかのように語る人も少なくない。繰り返されるのは、「植民地」の問題はとっくに終わっている、という認識だ。
先生は著書の中で、戦後、韓国への旅に誘われても行けなかった、と記していた。
「私が苛酷な青春を強いられていたその時、その地の人たちは、私もその一員だった日本帝国陸軍の軍靴に踏み躙られる屈辱の日々を味わわされていた」
旅が大好きで、いつもカメラを持ち歩き、私たちに世界中の写真を見せて下さった。でも、先生は韓国を旅できなかった。
戦争に行った人と同時代を私は生きたのだ、と改めてその意味を思った。「忘れる」方向に向かう今の日本を、先生が生きていらしたら、どのように思うだろう。本を閉じて、先生の声を聞きたいと思った。たくさんの死者の声に耳をすましたいと思った。
※週刊朝日 2016年3月4日号