久本:よく分裂しなかったと思います。みんなワハハならではの舞台が好きということもあるんですが、不器用なんだと思います。ワハハだからこそ生かされていて、ほかでは無理だとわかってるんでしょうね。野田秀樹さんの「夢の遊眠社」や鴻上尚史さんの「第三舞台」はじめ、第3世代の劇団は解散したり形を変えたりしましたから、残ってるのはうちくらいじゃないですかね。
林:久本さんは、そこからどうやってこんなに売れっ子になったんですか。
久本:喰始は当時、「うちは劇団じゃなくて集団だ。舞台は一人ひとりの個性を輝かせるプロモーションでありオーディションだ」と言っていたので、私たちは自分のシーンは自分で作ってアピールしていったんですね。そして昔はディレクターやプロデューサーが小劇場をくまなく見て、競い合うようにして人を探してたんですよ。
林:あのころのテレビ、いろんなおもしろい人を起用してましたよね。
久本:そうなんです。いまは売れた人を使うようになっちゃいましたが、当時はどこの馬の骨かわからなくてもおもしろければ使ってくれましたから。そうやって見つけていただいて、「オールナイトニッポン」のパーソナリティーやタモリさんの「今夜は最高!」という番組でコント要員をやらせていただいたのが、ほぼ同時期です。
林:そこからどんどん人気者に?
久本:ほかにもいくつかターニングポイントがあって、一つは島田紳助兄さんがゴールデンの番組に呼んでくれたんです。私は過激でシモネタもバンバン言ってたので最初は深夜番組ばかりだったんですが、プロデューサーに「な、こいつ、ゴールデンいけるやろ」と。
林:やさしい~。
久本:ほかにも山城新伍さんがお昼の生放送に引っ張ってくださったり。それからワハハ本舗の全国ツアーで軽井沢に行ったとき、宣伝も何もしてないからお客さんぜんぜん集まらなかったんです。「俺は11人以上じゃないとやらない」とか言う人もいたんですが、数えたら11人いる。「しょうがねえなあ。やるか」とか言ってやってたら、なんとお客さんの中に「オレたちひょうきん族」の名ディレクターの三宅恵介さんがいたんです。それで「ひょうきん族」で使ってもらって。
※週刊朝日 2016年2月19日号より抜粋