私が織田信長の直系の子孫だからと言って、先祖の一人ひとりについて詳しく知っているわけではない(※イメージ)
私が織田信長の直系の子孫だからと言って、先祖の一人ひとりについて詳しく知っているわけではない(※イメージ)

 戦国の風雲児といわれ、天下統一を目指した武将・織田信長。その子孫である織田家18代当主の織田信孝(のぶたか)さんは、先祖の逸話についてこう語る。

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 私が織田信長の直系の子孫だからと言って、先祖の一人ひとりについて詳しく知っているわけではない。

 自分の家系、つまり信長の次男、信雄(のぶかつ)から続く家系については自然に詳しくなるが、それ以外の家系については知らないことも多い。自分の家系についても曽祖父くらいまでは人づての情報があるが、それ以前になると雲をつかむような感じである。これはどこの家でもそうではないかと思う。ただ、歴史上有名な人物が先祖にいるせいで、何かと記録が残っているとか、いろいろな方に墓のある場所や逸話を教えていただく機会は多いかもしれない。

 信休(のぶやす)の墓を知ったのもそういう経緯だった。6年ほど前、(旧領地だった柏原のある)兵庫県丹波市の文化財担当者から電話があった。「京都の石材屋さんから、瑞林院(ずいりんいん)という寺で織田信休の墓を見つけたと連絡がありました。ご子孫にお知らせします、とのことです」

 瑞林院は京都の百万遍知恩寺の塔頭だ。その石材屋さんは、瑞林院が代々管理してきた墓の改修を手がけた。それまで誰の墓なのかわかっていなかったので調べてみたら信休の墓だった。石に銘が刻まれていたのだ。

 信休は柏原藩の初代藩主だ。奈良の大和松山藩の4代目藩主だったのだが、父(信武)の代のとき、お家騒動が起こり、父が自害したため、彼の代に幕府に領地を没収され、国替えになって柏原に来たのである。信休の墓は柏原にもある。それなのになぜ、京都にも墓があるのかは今も謎だ。

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