球団にとっても選手にとっても大事なドラフト会議。選手として、そして監督としての思い出を東尾修氏が明かす。
* * *
10月23日にドラフト会議が開かれた。これからプロの世界に飛び込む希望、意気込みといったものが、若者たちの目に宿っていた。そんな姿を見て、ふと自分が西鉄(現・西武)から1位指名を受けた時のことを思い出したよ。
実は、最初は打者として生き抜こうと思っていたんだ。箕島高時代は打撃のほうが評価は高かったし、私も好きだった。高校2年の新チームから背番号1をもらい、1968年のセンバツではエースとして投げ、ベスト4に入った。それでも、進学を考えた慶大のセレクションは打者として受けていた。投手の自信なんて芽生えていなかった。
1位指名は、学校で聞いてとにかく驚いたな。高校の尾藤公(ただし)監督のところには数球団から話がきていたみたいだが、その中に西鉄の名前はなかった。当時、私は岡山から西にいったことがない。ただ、全体で12番目の1位指名であっても、1位は1位。家族には、みかん農園を継がせたい思いがあったと思うが、無理をいって入団したよ。
入団直後にショッキングなことが起きた。初めて背広を仕立ててもらった時のことだ。右手が左手より2センチ短いことを、採寸して初めて知った。投手にとって利き腕は長いほうがいいに決まっている。単純に、より捕手に近い位置でボールを離せるわけだからね。
そうなった原因を思い返すと、中学1年生の時かな、右肩の肉離れをした。半年間くらい右手を三角巾で吊っていた。骨も筋肉も成長期で、動かせなかった右手だけ成長が遅れたのかなと思う。だからプロ1年目で直球を打たれると、右手が短いから球離れが早いのかな……と不安ばかりだった。夏には、自信をなくして投手コーチに野手転向を願い出たりもしたな。
だけど、打たれ続け、叩かれながら、生き抜く術を考えるようになった。プロとはそういうものだ。身体的な部分はプロに入る子たちは十分持っている。そこに努力、そして頭脳をプラスしていく。だから、大いに悩んで、心のタフネスさも身につけてもらいたい。
ドラフトといえば、もう一つ。西武監督時代の98年、横浜高の大スター、松坂大輔の指名を思い出す。夏の甲子園大会前から、何球団競合しようと1位で行くと決めていた。ドラフト前、当時の堤義明オーナーからは「体清めていけよ」と言われた。当日の朝、右手の爪を切った。日本ハム、横浜との競合でくじ引きの順番は2番。残り2枚の封筒から、最初から右上と決めて選び、引き当てた。
「横浜(現・DeNA)しか行かない」と言っていた大輔を口説くため、私は表向きの初交渉前に都内の焼き肉店で大輔と両親に会った。「監督というより投手出身者として、責任を持って大輔君に200勝させます」。その上で「絶対、客寄せパンダにはしない」「競争で勝ち上がらせる」ことを約束。私の通算200勝の記念ボールを渡した。突き返されるかと内心ドキドキしていた。「この重さをどう感じるか。持っておいてくれ」。大輔が何て言ったかは覚えていないが、ボールをポケットにしまってくれたシーンは覚えている。
ドラフトは不安と期待が入り交じったものだが、それは球団、現場監督だって一緒だ。この日を境に絆が生まれる。恐れず、思い切って、プロの世界に飛び込んでほしいよな。
※週刊朝日 2014年11月7日号

