世界遺産登録を受け、にわかに脚光を浴びている、群馬県・富岡製糸場。明治5年、殖産興業を推し進める政府肝いりの官営工場として設立されたことは日本史の教科書でおなじみ。レンガの外観で有名な繭倉庫や繰糸場が、明治時代の姿そのままに残っている。
今回、世界遺産には、ほかにも三つの文化財が登録された。蚕の卵を生産した田島弥平旧宅、蚕の飼育法を確立した高山社跡、蚕の卵を貯蔵し、通年での養蚕を可能にした荒船風穴である。
富岡市職員の結城雅則さんは、「この四つの文化財を見れば、製糸の流れの全体像がわかるようになっています。シンプルに、わかりやすく、構成資産を四つに絞ったことで、産業遺産としての価値を、外国の方にも理解してもらえたと思います」と語る。
あまり知られていないが、富岡製糸場は、1893年に民間に払い下げられ、1939年からは片倉製糸紡績(現・片倉工業)の工場として、87年まで操業していた。戦後、生糸の市場は徐々に縮小していったが、明治時代に確立した日本の製糸技術は、長い間世界を牽引してきたのだ。四つの構成資産を回ることで、手で繰っていた生糸が、大量生産商品に姿を変えるまでの技術革新を、目の当たりにできる。この夏は群馬県で、日本の近代化の夜明けを体感してみては。
現在、生糸の約99%が外国産だということをご存じだろうか。富岡製糸場の世界遺産登録をきっかけに、富岡市などでは国産シルクを守ろうという動きが盛り上がっている。
その中の一人が、東京・日本橋浜町で和装店「衣裳らくや」を営む石田節子さん。富岡の繭を使ったシルク製品「富岡シルク物語」を作っている。
富岡には富岡シルクブランド協議会というものがあり、市内の14軒の養蚕農家の繭はすべてそこが買い上げている。その繭を使って石田さんは、この写真のような反物を、職人たちと共に生み出している。
「私たちが国産の繭を買うことによって、養蚕や生糸を作りだす日本の伝統的な技術を残していきたい」(石田さん)
時間やコストはかかるかもしれないが、ひとつひとつの製品には、「国産シルクの未来」が込められている。
※週刊朝日 2014年7月4日号