認知症の人が列車にはねられ死亡する鉄道事故。事故後、鉄道会社がダイヤの乱れなどを理由に遺族に対して多額の損害賠償を求める動きに「人ごとではない」と感じた人も多いだろう。早稲田大学国際教養学部教授の池田清彦氏は「賠償請求は鉄道会社のエゴだ」と訴える。

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 認知症のお年寄りの鉄道事故が相次いでいるという。2012年度までの8年間で少なくとも149件の事故が発生し、115人が亡くなった。多額の賠償を請求されて遺族が困惑している事例も目立つと聞く。認知症の老人の行動の責任を同居の親族が100%負わねばならないとすると、徘徊を防ぐために座敷牢に閉じ込めておいてもよいという話になりかねない。それはそれで大きな人権問題だ。

 法的には鉄道会社が遺族に賠償請求する権利があるのだろうが、法を離れて素直な頭で考えれば、線路に簡単に入れるような鉄道を敷いている鉄道会社にも問題がないと言えなくもない。昔、開かずの踏切が問題になったことがあるが、公道と線路とどちらが公共性が高いかと言えば、公道の方が公共性が高いと私は思う。少なくとも線路の方が公共性が高いという考えは自明ではない。

 歩行者や車がなぜ踏切で列車の通過を待っているかと言えば、踏切で列車がいちいち止まっていたら、列車の運行がままならないという、列車の都合によるに決まっている。いわば列車のわがままな言い分を社会が許容しているわけだ。

 それなのに、列車の運行は何よりも優先すると勘違いして、認知症の人が列車の運行を妨害したとして賠償を請求するのは鉄道会社のエゴである。信号が故障して踏切が延々と開かなくなり、乗車しているバスやタクシーが大幅に遅れて、国際線の飛行機に乗り遅れたとして、鉄道会社は賠償に応じてくれることはないのだから、これは対称性の原則に反してフェアではない。

 すべての鉄道が新幹線のように踏切もなく、徘徊老人が侵入するのがほぼ不可能になっていれば、認知症の人の鉄道事故は防げるのだから、本来はそうするのが筋なのである。もちろん、そんなことはコスト的に不可能であるのはよくわかる。ならば、賠償を請求するのもやめてもらいたい。認知症の人による鉄道事故の損害など、踏切をなくして高架や地下化するコストに比べれば微々たるものだ。

 認知症関連の鉄道事故では、去年の秋、名古屋地裁が遺族に720万円の賠償金を支払うように命じたが、法的には正しいとしても、倫理的には不正義な判決だと思う。一番簡単なのは、認知症による鉄道事故の賠償責任保険を新たに作って、鉄道会社にこの保険に加入するのを義務づける法律を作ることだ。鉄道会社は公道を勝手に遮断して、企業利益のために利用しているのだから、このぐらいの社会サービスをするのは当然だと思う。

週刊朝日  2014年2月14日号