山中伸弥・京都大学教授のノーベル医学生理学賞の受賞が決定した。瞬く間に有名人となった山中教授だが、研究室を立ち上げた当初は人集めに奔走する日々だったという。

 1999年12月、37歳の山中伸弥は、奈良県・生駒の山を切り開いた真新しいキャンパスの土を踏んだ。「さあ、おれも一国一城の主や」と意気込んだ。学生を受け入れ始めて、まだ6年ほどしかたっていない奈良先端科学技術大学院大学。その助教授の公募に応募して採用が決定、ようやく独り立ちした科学者となったのである。

 とはいえ、だだっ広い研究室には、まだ何もない。機材もなければ人もいない。あるのは研究テーマだけ。留学した米サンフランシスコのグラッドストーン研究所と助手を務めた大阪市立大学医学部でつかんだ、「どんなものにでもなれる多能性幹細胞の本質ってなんだ?」という、専門家にいわせれば「途方もない」ものだった。

 翌年4月には、大学院生が来るはずだった。約120人の新入生を20近くの研究室で取り合って、何人かは研究室に引き込まないと勝てない。それまで、ほとんど研究実績を持たない山中には難題である。

 山中は各教授・助教授が学生の前でテーマを競う研究室説明会で、「大バクチ」を打つことにした。「ES細胞(胚性幹細胞)とそっくりの、どんな組織・臓器にもなれる万能細胞を人間の細胞から作るのが目標」とぶち上げたのである。

 山中の本音は「そんなん実現するのに相当かかるやろなあ、30年か40年か」だった。まさに「大風呂敷」だ。「『役に立つ研究』と堂々と言えば、だまされる学生もおるかもしらん」。ワクワクするようなビジョンを周囲に語る大切さは米国でたたきこまれていた。

「だまされて」山中研究室の門をくぐった大学院生は、高橋和利(現・京都大学iPS細胞研究所講師)、徳澤佳美(現・埼玉医科大学特任研究員)、海保英子(現・会社勤務)の3人。

 入学して初めて山中研の存在を知ったという徳澤は、「プレゼンテーションのうまい先生方の中でも山中先生は最もわかりやすかった。『小さいラボでもエース級のアクティブな研究室を目指したい』という言葉に志の高さを感じた」と、いま思う。

(文中敬称略)
AERA 2012年10月22日号