誰もがネットを通じて、気軽に意見を発信できるようになった昨今だが、「炎上」が問題になることも多い。心理学者の小倉千加子氏は炎上を一種の集団パニックだと仮定し、次のように説明する。

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 テレビを見ていたら、ブログで「失言」をした岩手県議が自殺か、というニュースが流れてきた。県議会で辞職勧告が決議されるかもという状態で、自分のしたことをさぞかし後悔しているだろうとは思ったが、自殺するとは思わなかった。

 しかし、一緒にテレビを見ていた父の驚き方は違った。「何? 病院で怒った人が自殺した?」「まあ、日本中を敵に回したことになるし、県議を辞職させられるし」「何という弱い人か。辞職しても生きていればいい。死ぬことはない。弱いねえ、弱いねえ」。

 89歳の父は食事の手を止めて溜息を吐いている。『新潮45』6月号で、この県議のことを指したわけではないが、次のような文章を私は読んだばかりだった。

「興奮すると失言しやすい人や、SNSでプライバシーの公開範囲の調整の仕方が分からない人は、気軽にSNSに手を出し、軽はずみな発言をしない方がいいということである。一部でツイッターが『バカ発見器』と呼ばれているのは、140文字の短い文字数が『興奮』を伝えるのに手軽なツールであり、誰しも『馬鹿な発言』をしてしまう可能性があるからだろう。普段は言葉を選んでつぶやいているつもりでも、私たちは、酒を飲んだ時や、気分に変調をきたした時に、スマートフォンが手許にあるリスクを考慮に入れて生活する必要がある。ウェブ上の世界は、一つの失言で赤の他人を『人生の落とし穴』に引きずり込もうとする『暇な人たち』であふれているのだ」(「ネットで人生台無しになった人たち」酒井信)

 県議が「人生の落とし穴」に引きずり込まれたのは「馬鹿な発言」をしたからだと考えることと、県議が引きずり込まれた「人生の落とし穴」に最後に自ら本当に落ちたことが「馬鹿な(=弱い)行為」だと考えることは全く違う。

 ネットの「炎上」を一種の集団パニックと見なすなら、この県議への辞職勧告決議や、ひょっとすると自殺までをも已(や)む無しと思った時点で、人は(=私は)集団パニックに陥っているということになる。

 集団パニックとは何か。集団が統率の取れている時には、個人の行動も感情も抑制されている。軍隊であれば上官にあたるのが、個人の規範であり理性である。しかし、劇場で出火した時には集団の司令官はいなくなり、個人は強い感情を抑え込むことができなくなる。

「集団でありながら、集団の体をなしていない時の現象」、それがパニックである。そこに表れ出てくるのは、「今まで抑圧されてきた、他人に対する容赦のない敵対的衝動」である。

 劇場の「炎上」ではなく、ネットの「炎上」では、誰かの「発言」が突発的に怒りに油を注ぐことで、個人は即座に司令官のいない状態に解体される。今まで従属していた人物や配慮しなければならないとされてきた人物への攻撃は、無意識に抑圧されてきた分、なおさら容赦のないものとなる。

 ヘイトスピーチもDVも「炎上」も、同じ性質を持っている。人間が個人として獲得してきたものの輪郭を常に明晰に保ち理性的な状態にとどめるためには価値体系としての司令官が必要である。パターナリズム(父権主義)は集団を統率する上では非常に有効である。ただし、パターナリズムは内部(家族)を守るために外部に敵を想定しなければならない。安心のために人は闘わねばならない。

 そういう二義性を日本人は選んでいる。

週刊朝日 2013年7月12日号