開業間もない新御茶ノ水駅に停車する営団地下鉄5000系。新御茶ノ水駅はメガネ型シールド工法で建設された (C)朝日新聞社
開業間もない新御茶ノ水駅に停車する営団地下鉄5000系。新御茶ノ水駅はメガネ型シールド工法で建設された (C)朝日新聞社
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当時最先端の回生ブレーキ付き電機子チョッパ制御方式を採用し、外観も革新的だった6000系の試作車。量産車とは帯やスカートなども異なる (C)朝日新聞社
当時最先端の回生ブレーキ付き電機子チョッパ制御方式を採用し、外観も革新的だった6000系の試作車。量産車とは帯やスカートなども異なる (C)朝日新聞社
営団地下鉄千代田線の北千住~綾瀬間と、国鉄常磐線の綾瀬~我孫子間の複々線が完成し、1971年4月19日に綾瀬駅で行われた開通式。手前が営団6000系、奥が国鉄103系1000番代 (C)朝日新聞社
営団地下鉄千代田線の北千住~綾瀬間と、国鉄常磐線の綾瀬~我孫子間の複々線が完成し、1971年4月19日に綾瀬駅で行われた開通式。手前が営団6000系、奥が国鉄103系1000番代 (C)朝日新聞社
代々木公園~代々木上原開通を前に、試運転で顔を合わせた営団6000系(右)と、小田急が相互直通運転用に開発した9000形(左) (C)朝日新聞社
代々木公園~代々木上原開通を前に、試運転で顔を合わせた営団6000系(右)と、小田急が相互直通運転用に開発した9000形(左) (C)朝日新聞社

 都心で暮らす人々にとって日々の生活に欠かせない地下鉄。その一つ、東京メトロ千代田線が昨年末に、1969年12月20日の開業から50周年を迎えた。その50年間の歴史には、今では当たり前になった相互直通運転で、「迷惑乗り入れだ!」と抗議集会が巻き起こった過去も。当時日本初の建設工法を採り入れたり、まさに、エポックメイキングな路線と言える。半世紀のエピソードを紹介しよう。

【懐かしい?1971年の綾瀬駅の写真はこちら】

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■新工法を積極的に導入し難関区間から先に建設

 昭和30年代に入ると、都市の鉄道は通勤客が急増し、特に東京都は激化の一途をたどっていた。運輸大臣(現・国土交通大臣)の諮問機関である都市交通審議会は1962年7月、答申第6号によって、東京都市計画高速鉄道第9号線を告示した。当時、第9号線は喜多見~綾瀬間32.5キロ(建設キロ)として計画されていたが、のちに代々木上原~綾瀬間23.0キロ(建設キロ)に変更された。

 この路線を営団地下鉄(現・東京メトロ)の手で建設することになったほか、国鉄(現・JR東日本)常磐線、小田急電鉄(以下、小田急)小田原線との相互直通運転も決まった。1966年から工事に着手し、まずは北千住~大手町間などを建設する運びになった。

 工事は軟弱な地盤を通ることから難航を極めた。新御茶ノ水駅は地形の関係で、国鉄御茶ノ水駅聖橋口付近から地表34メートル下の位置にホームを建設するため、円形で掘り進めた上下線のトンネルをつなげて、眼鏡のブリッジに相当する中間部にホームを設けるメガネ型シールド工法を我が国で初めて採り入れた。改札からホームまで41メートルという長いエスカレーターは、当時「東洋一」と称された。

 また、神田橋下では川底下の地盤を氷塊させてから掘削工事に入る凍結工法を採用した(この工法は半蔵門線の九段下付近でも施行された)。さらに道路の幅員が狭い区間にトンネルを建設するため、湯島~北千住間は上下二層式を採用。公道の下は私有地にならないので、建設費を抑えられるのだ。

 路線名は営団地下鉄で初めて職員から公募されて千代田線と決定。保安装置は営団地下鉄初のCS-ATC(車内信号式の自動列車制御装置)を採用し、運転保安度や能率を向上させた。以降、営団地下鉄の標準的な保安装置となる。

 1969年12月20日、北千住~大手町間が開業し、5000系3両編成で営業運転が開始された(のちに5両編成化)。線路自体は綾瀬駅の先の綾瀬検車区まで延びていたが、常磐線の高架化工事に伴い、国鉄が千代田線の線路を借用するため、綾瀬~北千住間の営業は“お預け”。また、西日暮里は交差する国鉄駅が未開業だった。

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利便性向上のはずが沿線住民の抗議集会に発展