■“迷惑乗り入れ”と非難された相互直通運転と運転パターンの変更

 1971年3月20日、霞ケ関~大手町間が開業。北千住~霞ケ関間の運転になり、列車は5両編成から一気に10両編成に増やされた。同年4月20日、綾瀬~北千住間が開業。併せて国鉄はダイヤ改正を行い、常磐線綾瀬~我孫子間の複々線化と同時に相互直通運転を開始(のちに複々線と相互直通区間を取手まで延伸)し、我孫子~霞ケ関間の運転に拡大された。また、西日暮里の国鉄駅も開業した。ところがこれが大きな波紋を呼ぶ。

 まず、綾瀬駅が国鉄管理駅から営団地下鉄管理駅に変わった。これにより、運賃計算が複雑化し、利用客にとっては大変分かりにくいものになった。例えば、松戸から西日暮里まで各駅停車に乗車し、西日暮里から池袋へ向かう場合、松戸~北千住間は国鉄、北千住~西日暮里間は営団地下鉄、西日暮里~池袋間は国鉄の運賃がそれぞれ適用され、割高になる。

 また、このダイヤ改正で上野発着は快速(取手以北の普通電車も含む)、千代田線直通は各駅停車とすみ分けを行った。そのため、各駅停車のみが停車する綾瀬、亀有、金町には常磐線快速用のホームが設けられなかった。このため、営団地下鉄で春闘によるストライキが発生した時は、国鉄沿線でありながら都心に直通できないため、乗客は松戸まで北上し、快速上野行きに乗り換えたという。

 しかも、営団地下鉄が申請した運賃の認可が下りたのは、開業6日前の4月14日、運賃などの説明をするポスターの掲示が4月17日で、あまりにも告知が遅過ぎた。

 相互直通運転や複々線により利便性向上になるはずが、利便性の低下を招く展開となり、亀有や金町に住まいを構える人たちが“迷惑乗り入れ”と抗議集会を起こす。この熱気に国鉄は常磐線の快速、各駅停車の増発を決め、ゴールデンウィーク明けにダイヤ改正をしたが、沿線の人々の怒りは収まらなかった。だが、国鉄はこの運転パターンを崩さず、沿線の人々も慣れたようで、いつしか怒号は消えていった。

■小田急と相互直通運転を開始、北綾瀬にも10両編成が直通

 1972年10月20日に開業した霞ケ関~代々木公園間では、3つの大きな特徴がある。1つ目は国会議事堂前駅。地表から36メートル下という都内最深駅(当時)となり、新御茶ノ水駅と同様にメガネ型シールド工法を採用した。2つ目は表参道駅。隣接する銀座線神宮前駅を移転改称することで乗換駅とした。3つ目は代々木公園の真下に広大な地下留置施設を設けたこと。8編成分を収容できるほか、ピット線を1本設け、検査や故障発生時の応急処置をできるようにした。

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