このときのリベンジは約40年後、自ら企画する「鮮魚列車ツアー」で果たすことになる。

 大塚氏はその後、大学を卒業。電車への思いは強く、就職活動では鉄道会社を何社も受験したが全滅だった。唯一、内定した近畿日本ツーリスト(その後、分社化しクラブツーリズム)に入社し、国内各地の旅行ツアーの企画担当となった。鉄道とは関係ない仕事だったが、充実した日々を送っていただけに、部署異動の希望は出さずにいた。

 転機となったのは約10年前、ツアー企画でJRとの仕入窓口となるJR販売センターに異動したことだった。子どものころから追いかけてきた鉄道への情熱がよみがえる。大塚氏は複数の貨物線を周るツアーをJR東日本に提案した。

「最初はほとんど門前払いでした。先方の担当者に提案しても『面白そうですね』という社交辞令だけで、話が一向に進まない。『そんなの売れるわけがない』と思われていたのでしょう」

 それでも心は折れなかった。交渉を続け、異動してから8年目、ようやく貨物線ツアーの実現にこじつけた。

「その時のJR側の担当者が、『それおもしろいね。やってみようか』とすぐに興味を示してくれて。その後の自社での新商品会議で貨物線ツアーを報告すると、上から『こんなの売れるの?』と言われ、危うくお蔵入りするところでした。販売グッズはすでに仕入れ済みで返品するわけにもいかない。なにより、絶対に売れるという自信がありましたから、勢いで押し切りました」

 反響は予想以上だった。プレスリリースを通してツアーを発表すると、2日間の2回にわけたプランの定員数、計300人のプランはあっという間に満席になった。その後もツアーチケットを求める客が殺到し、740人ものキャンセル待ちが発生した。ヒットメーカーが誕生した瞬間だった。

「ネットで検索すると、私が企画したツアーの記事ばかり出てくるんです。プラン発表当日の深夜には満席になっていたようで、最初は信じられませんでした」

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