そして、背番号「54」を貰うと、「53番の先輩・五十嵐(亮太)さんを超えるようにということだと思います」と勝手に(?)解釈し、「日本記録(当時は158キロ)を抜いて160キロを出したい」と公約。さらに5年後に開催される北京五輪についても、「1戦目の先発は僕で、2戦目が松坂(大輔)さん」と日本代表チームのエース宣言も飛び出し、色紙にしたためた言葉も「世界一」だった。

「ありきたりのことは言いたくない。目標がないと、何していいかわからないでしょ?自分へのプレッシャーでもあります」と説明した吉田だったが、入団からわずか半年後の翌年6月8日、内臓疾患を理由に、2軍戦でも1試合も登板できないまま退団となった。
 
「エースになる」を飛び越えて、「監督になる」とぶち上げたのが、04年、ドラフト史上最年少の15歳で阪神に8巡目指名された辻本賢人投手(マタデーハイスクール)だ。

 小学6年のときに単身渡米。140キロ台の速球を武器に全米大会に出場し、帰国後、即プロ入りを希望したところ、日米9球団が関心を示し、「そんなに有望な選手は、地元の球団が支えなあかん」という星野仙一SDの鶴のひと声で指名が決まった。

 15歳のプロ野球選手誕生という歴史的快挙に、芦屋市の自宅には、テレビ7局、新聞、雑誌など約100人の報道陣が殺到。そんななか、辻本は「監督になるまで阪神にいたい」とビッグな目標を掲げた。

 だが、当時シダックスの監督だった野村克也氏が「大反対だ。人生を無駄にする必要はない。獲るほうも獲るほうだし、出すほうも出すほうだよ」と非難したのをはじめ、「高校も出ないで、プロでダメだったらどうするの?」と心配する声が多かったのも事実。結局、阪神では相次ぐ故障に悩まされ、1軍登板のないまま、20歳で退団した。

 こうして見ると、プロで結果を出せなかった顔ぶれが並ぶが、その一方で成功した選手も多い。「日本シリーズで、勝ったら優勝という場面で投げてみたい」(85年巨人1位・桑田真澄)、「(イチローと対戦したら)真っすぐで勝負したい。そして、力でねじ伏せたい」(98年西武1位・松坂大輔)、「(目標は日本代表の4番?)もちろん。上のレベルの人がいなくなるまで突き進みたい」(07年日本ハム1位・中田翔)。

 いずれも高校生の発言としてはビッグマウスの部類に入るが、彼らがそう呼ばれないのは、プロで一流の実績を残したからにほかならない。すべてはプロ入り後の結果しだいなのだ。

暮らしとモノ班 for promotion
2024年この本が読みたい!「本屋大賞」「芥川賞」「直木賞」
次のページ
昨年の入団会見でも…