当時は皇太子夫妻が外に出れば、カメラマンや記者が必ず追いかけた。宮内庁もそのことは承知の上だから、絵になる場所があれば必ず撮影時間を設けた。こうした皇太子夫妻の行動が国民にどう伝わっていくか。唯一分かるのは、週刊誌に載った記事やテレビの映像を通してである。つまり、宮内庁病院の御料病室に雑誌が山のように積まれていたのは、国民からいかに見られているかを知るためだったに違いない。
どう振る舞えばどう書かれ、それがどう国民に伝わっていくか。美智子妃はそんなことを研究されていたのではないだろうか。
平成の天皇が、平成28年の「象徴としてのお務めについて」で「天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした」と述べられたように、象徴天皇像の軸を国民との「信頼と敬愛」に置かれたことは間違いない。だが、「信頼と敬愛」という抽象的な言葉を国民との間でどう結実させればいいのか。それが、週刊誌やテレビを通して新しい天皇像をどう見せるかにつながってくるように思う。
たとえば平成の天皇には、跪いて被災者と同じ目線で語りかけるスタイルがある。もちろんこのスタイルを決断したのは天皇だが、そこには国民から「見られる」ことを意識された美智子皇后の影響があったのではなかったか。実際、美智子妃はご結婚当初から、障害のある人たちと接するときは必ず同じ目線で話されていた。それを天皇は見習うべきだと思われたのだろう。同じようにされたのはその後だったという。そう考えると、平成の象徴天皇像はテレビや週刊誌と共に生まれたものだともいえる。
美智子妃は、“ミッチー・ブーム”によって沸いたメディアを最大限に活かしただけではない。国民の出産を自宅出産から病院出産に替え、産科医療の近代化を加速させたという意味では、日本人の生活を大きく変えた女性だった。まさしく、戦後が生んだ最大のスーパースターだったのだと思う。