


最近、何かと騒がしい「大相撲の伝統」。日本の相撲は「古事記」や「日本書記」に登場し、平安時代には宮中で行われ、江戸時代に興行スタイルが確立した。となれば、出自をいつの時代に求め、何を伝統の基軸とするのか?によって、伝統とやらの色合いは大きく変わるはずだが、いやぁ、なんともかんともですなぁ、などと曖昧模糊とすること自体が大相撲の伝統なのかもしれない。
何せ近世にあって大相撲とはスポーツ、神事、興行という3点に乗ってふらふらふらふらと揺れ続けるものであるのだから。曖昧で寛容こそが大相撲の伝統とでも言おうか。その点からすると、あのぐらいのことでコンプライアンスなんてキチキチっと窮屈な言葉を持ち出すことこそ、伝統からはずれてるんじゃないかなぁ?とスー女(相撲ファン女子)の私には感じられる。
たとえば今の大相撲に続く江戸勧進相撲の時代、
「精神化は相撲では剣や弓におけるように十分には行われなかった。それは剣や弓が長く武士の教養となっていたに反して、相撲は市井の興行物として栄えたからである。力士は武芸者であるより、一層芸人となったのである」
と、詩人の谷川俊太郎の父で、哲学者の谷川徹三が『日本の相撲』(ベースボールマガジン社)に書いている。谷川によれば、元禄の頃には歌舞伎を真似て鬼勝という力士が顔に白粉を塗って土俵に上がったとある。
「相撲は畢竟(ひっきょう)大衆の人気の上に立ってきたので、江戸時代の大衆の感覚感情をその姿態の上にも風俗の上にも顕著に繁栄しているのである」
というのが、谷川の言う大相撲の伝統の1例だ。大衆の感覚感情の上に繁栄することが伝統の一つなら、館内を沸かせた三本締めもまた伝統の継承の一つではないかなぁ。
さて、大相撲の伝統はまた、土俵の上だけで築かれたものではない。相撲は江戸時代から錦絵に描かれてきた。木版の多色刷り版画だ。初期の頃は力士を漠然と描いていたものの技術が徐々に向上するに従い、明和年間(1764~1771)頃からはブロマイド的に人気力士が描かれるようになり、役者絵と並んで力士絵は人気のものとなったとか。その後明治になって錦絵はすたれてしまったが、明治大正期になると画家の鰭崎英朋(ひれざきえいほう)が「東京朝日新聞」にて大相撲の取組絵を場所中毎日描き、これが相撲ファンに大人気となっていたのも忘れてはならない。相撲文化を築く一因を担った。