
“声の張り”に充実感が漲っていた。
「俺、先発ですから!」
ブルペンから汗をしたたらせながら引き揚げてきた直後の第一声だった。会うのは昨年11月の日本シリーズ以来だから、およそ3カ月ぶり。ブルペンで114球、それもキャンプ序盤に捕手を座らせての全力ピッチに「えらいたくさん投げるやん?」と冷やかし気味に言うと、笑顔いっぱいで寺原隼人は前述のように返答してきた。
4球団目の新天地・ヤクルトで、かつての「甲子園の星」がその輝きを取り戻しつつあるように映った。
寺原隼人、35歳。プロ18年目。
2001年、宮崎・日南学園高のエースとして夏の甲子園に出場した右腕は、8月16日の2回戦・玉野光南戦で当時の「甲子園最速」となる157キロをマーク。ネット裏のアトランタ・ブレーブスのスカウトが構えたスピードガンで「98」のマイル表示をたたき出したのだ。
テレビ中継のスピードガンは、キロ表示ながら「154」。いずれにせよ、寺原はその3年前に横浜・松坂大輔(現中日)がマークした「151」という当時の高校生最速記録を超えたのだ。
その“松坂以上の剛腕”は、2001年のドラフト1位指名でダイエーへ入団。出身地が宮崎、球団の本拠地が福岡と「九州」のイメージが強い寺原だが、07年には横浜(現DeNA)へ、11年にはオリックスへ移籍した経験がある。FA権を取得し、古巣・ソフトバンクへの“移籍復帰”を果たしたのは13年のことだった。
横浜時代の07年に12勝。翌08年は22セーブ。オリックスでも11年に12勝をマーク。先発でも、リリーフでも十分な実績と経験がある。それだけに、首脳陣にすれば実に重宝する存在だ。投手陣の頭数が豊富なソフトバンクでも、先発ローテの谷間に起用されることもあれば、中継ぎ、セットアッパー、さらには先発が崩れたケースで試合序盤からのロングリリーフといった、あらゆる場面で寺原は使われた。