記者席から見ていた私も、その光景に、思わず鳥肌が立ったのを覚えている。三塁側ベンチ前に松坂が姿を見せ、キャッチボールを始めたのだ。

 とうとう、松坂が投げるんだ--。

 横浜の攻撃が終わると、松坂は右ひじのテーピングを、自分で外した。そして、ダッシュでマウンドへ向かった。その瞬間、甲子園のボルテージが、最高潮に達した。

 松坂は、明徳義塾の9回の攻撃を3人で抑えた。このまま終わらない。何かが、きっと起こる。期待感を上回る予感が、甲子園を包み込んでいた。明徳義塾にしてみれば、リードしているはずなのに、どこか追い詰められたような気分になってしまう。甲子園の魔物とは、こういう時に目覚めるのだろう。その裏、横浜は3点を奪ってサヨナラ勝ち。明徳義塾のエース・寺本四郎(元ロッテ)はその瞬間、マウンドに突っ伏して号泣した。

 松坂大輔、恐るべし--。

 決勝戦でも、異例光景が展開された。プロのスカウトたちは通常、1、2回戦で全出場校をチェックすると、甲子園を後にする。大学や社会人の逸材たちが、夏合宿や練習試合を行う季節になるため、その視察で各スカウトたちは、甲子園から再び全国へと散っていくのだ。ところが、松坂を見るために、ネット裏に大勢のスカウトが戻ってきたのだ。

 決勝戦の大舞台で、どんなパフォーマンスをするのか。スカウトとしてもちろんのことだが、一野球人としても見たい。そう思わせる存在だったのだ。私のスコアブックにも2人のスカウトのコメントが残っていた。

「惚れ直して、2周くらいしたかな」(横浜・宮本好宣スカウト=当時)「見に来るのが楽しいピッチャー」(ヤクルト・矢野和哉スカウト=当時)

 2日前に250球を投げた投手が、決勝戦で、今度はノーヒットノーランをやってのける。まさしく、規格外の高校生だった。

 その後も、西武からメジャーへ。レッドソックスではワールドシリーズを制し、WBCでは、日本のエースとして第1回、第2回大会ともにMVP。まさしく世界も席巻した右腕は、米国で右ひじに、日本帰国後には右肩にメスを入れることで、全盛期の力は、明らかに失われた。日本に戻ってきた2015年からの3年間、ソフトバンクでは1軍登板1試合のみ。リハビリに明け暮れ、剛速球が消えた松坂は「もう終わった」と酷評され、現役引退もささやかれた。

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