海、はみ出す、落ちる。
連想したのは、子どもの頃に何かの本で見た古い地図だ。国際政治学者、高坂正堯は『世界地図の中で考える』(新潮選書)で「昔の地図は地球を平面と考え、海の方に行けばその端は滝になっていて、船はその滝のなかに沈んでしまうというようなものが多い」と書いている。
端を大洋で切り取られた地図は「隅っこに居るやつが海の中へ落っこって」という寅さんのセリフを思わせる。東洋と西洋、時代も飛び越えた組み合わせについ、にやりとしてしまう。
この本には、古代エジプトで活躍したギリシア人天文学者エラトステネスが「地球が球形だと知ってい」たものの、本人にとってその知識は「なんら実際的な意味を持ちえなかった」という指摘も出てくる。
そこから先のことは考えても仕方がない――。私にとっては「生きる理由」も「死ぬ理由」もこれだ。見つけ出さなくてはと海に船を出し、やがて滝に引き寄せられていって、最後はドボン。そんなリスクはおかさなくていい。
今、思い悩んでいるというその女性と顔を合わせたとする。自分なら、なんと言葉をかけるだろうか。たぶん、まずは寅さんの話をして「そういうことは深く考えないほうがいいですよ」と笑わせるだろう。しかし、それも一瞬のことだ。待ち望んだ答えをはぐらかされ、相手はがっかりした顔を浮かべる。すかさず伝えるのはこんなことだ。
「おそらくいまあなたに必要なのは『生きる理由』ではない。それはいったん見つけたと思っても『これが本物か』と疑問を招き、きりがないはずだ。それよりも、何をすれば今より心地よく過ごせるか考えませんか。行動に移してはまた考える。それを繰り返すうちに、『生きる目的』を問う気持ちの根っこにある日々への不安や不満が若干薄れ、問うこと自体を忘れているかもしれませんよ――」
前回のコラムでは、「もう食事はできない」と言われても、極上のひとさじを楽しみにしている、と書いた。以前通りには働けないが、コラムの連載という別のスタイルで働き、満足していることも。