武田:cakesというサイトで、毎週、芸能人について書く連載をしているんですが、ナンシーさんの頃とまったく違うと思うのは、対象となる人のファンが結託し、そのテキストに評価を下してくる点ではないかと思います。
小田嶋:ナンシーも指摘してましたね。ファンダムっていうのが形成されつつある、と。当時、私が新しいなと思ったのは、たとえば、「工藤静香はこういう人です」ということを書くときに、工藤静香という人がいて、工藤静香のファンダムというのはこんなふうにあります、と。工藤静香の発言とファンダムの受け止め方は、こういう関係性になっています、といった、ファンダムと芸能人、アイコンと信者の関係という、その関係性について、いつも鋭い論考をしていましたね。そこを破ったのは、もしかしたら最初かもしれない。対象は異常にせこかったりするんですけど、その異常にせこいものを、とても本格的にというか、学問的にというか、網羅的なアプローチで分析していた。
武田:文章を書いていると、ひとまず自分の書く対象についての情報を補強していかなければ、との思いが強くなっていくもの。でも、ナンシーさんのコラムには、補強しなきゃという意識が、さほど感じられなかったですね。
小田嶋:ナンシー関はなにかを言うときに、あいまいな保険をかけたような言い方はせずに、きわめて感覚的に断言してしまうことを時々やるんです。でも、その感覚的な断言を説明するときは、とても論理的にやらかすんですよ。感覚的な断言が見事な人というのは、清少納言以来、たくさんいますけど、ふたつを同時に持っている人というのは、あまりいないですよね。
武田:今回、『ナンシー関の耳大全77』(朝日文庫)を編集するにあたって、まず、武田鉄矢について書いたコラムを入れようと思いました。そのコラムの出だしは「武田鉄矢が人気者であると思うたび、私は日本という国が嫌になる。武田鉄矢を受け入れるというのが日本人の国民性だとするなら、私は日本人をやめたいと思う」です。武田鉄矢がどうのこうのというより、ナンシーさんの文章の威力が濃縮されている。これだけ直接的なことを言いながらも、そのあとの文章で、少しだけフラットにしつつ、論を軽快に動かしていくやり方。自分の暴走を自分でコントロールするテクニックにうっとりします。
特に自分と同世代くらいのライターって、初期教育として「共感する文章を書きましょう」と言われがちなんです。読み手の快適さを考えすぎて、いきなり困惑させたり、強めに断言してからあやふやにしたりする文章を書く選択肢を持たないんですね。