潤沢な隠居手当で写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活を送っていた(※写真はイメージ)
潤沢な隠居手当で写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活を送っていた(※写真はイメージ)
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「趣味は何ですか」と聞かれると、古楽(リュート)演奏、天体観測、美術館巡り、登山、水彩画、古カメラ古時計蒐集ときりがない。残念ながらどれもこなすのに一定の時間がかかるので中途半端であり、大学や国、学会などの公的職務が終わる定年が楽しみである。日本の歴史の中で、若くして公職を離れ、後半生を趣味に生きることで最長寿を全うした征夷大将軍がいる。徳川慶喜である。

■骨が折れる将軍は、最初から成らない方が良い

 徳川慶喜は、水戸藩主徳川斉昭の七男として天保8年(1837年)9月29日、江戸・小石川の水戸藩邸にうまれた。母は、正室有栖川宮吉子女王。幼少より水戸で文武両道を厳しく養育され英邁で知られたが、第12代将軍・徳川家慶の意向で御三卿・一橋家を相続、以後徳川(一橋)慶喜と名乗る。

 嘉永6年(1853年)、黒船来航の混乱の最中に将軍・家慶が病死し、その跡を継いだ第13代将軍・徳川家定が病弱であったため、将軍継嗣として実父徳川斉昭や阿部正弘、島津斉彬らにおされるが、井伊直弼のおす紀州藩主・徳川慶福(徳川家茂)に敗れる。しかし、本人はもともと将軍継嗣となることに乗り気ではなく、父に「骨が折れる将軍に成って失敗するより最初から成らない方が良い」と書き送っている。その家茂も若くして病没。将軍後見職の慶喜に征夷大将軍が回ってくる。

 佐幕派の公家やフランス公使レオン・ロッシュ(ナポレオン3世の意志でもある)の支援を受けて、徳川家中心の諸大名による合議制新政府案を模索するが、第二次長州征伐の失敗や世相の混乱を受けて大政奉還を決意する。しかし武力討幕をはかる薩長との鳥羽伏見の戦いの敗北を受けて江戸に帰り、さらに江戸城を無血開城し明治後は静岡に謹慎する。これ以降は一切の政治的野心を捨てて、潤沢な隠居手当で写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活を送る。

 趣味生活35年。徳川宗家とは別家として公爵に叙せられ、息子たちも別家として男爵を賜る。この時点で、かつて覇を競った島津久光も、西郷隆盛・大久保利通も、家臣ながら対立関係にあった勝海舟も朝廷側で策謀した岩倉具視も、すべて故人となっていた。公爵になった後、さらに11年生きて大政を奉還した明治天皇の没後の大正2年、感冒に合併した肺炎で逝去した。享年77。

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趣味に没頭することが認知症予防に?