2004年、教育困難校だった都立水元高校に校長として着任し、3年間で中退率を激減させた栗原卯田子先生。その後、中高一貫校になったばかりの都立小石川中等教育学校、そして私立の伝統校である成城中学校・高等学校の校長を歴任。学校は違っても、生徒をよく観察し、生徒の意見に耳を傾けながら自分の考えをはっきりと述べる”卯田子流”で、数々の難題と向き合ってきた。2021年に退職し教師という重責から離れたが、栗原先生はやはり「先生」と呼ぶのが一番ふさわしい。4回に分けてお届けする集中連載、初回は「水元高校編」。

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 校長として勤めた17年間、栗原先生は毎朝校門に立って生徒を迎えた。そのきっかけとなったのが、2004年に校長に昇任してから初めて勤めた水元高校だ。

 水元高校は教育困難校と言われた荒れた学校で、中退率が都立全日制で一番高く、2割近くに達していた。地元の商店街に名刺を持って校長就任の挨拶にいくと「あそこの校長をやるの!あんたも大変だねえ」と言われるほど、評判も最悪だった。しかも3年後に閉校することが決まっており、3年間限定の校長就任だった。

「女では務まらないと思われていたのか、女性が管理職として就任するのは初めてでした。聞こえてきた水元高校の評判は確かに芳しくなかった。どういう生徒たちなのか、自分の目で確かめたいというのが、校門に立つきっかけでしたね」(栗原先生、以下同)

 赴任初日、案内してもらった校長室の前の廊下で目に飛び込んできたのは、長針が垂直にねじ曲げられた蓋のない時計。校内を見回るとトイレのドアが壊されて壁は陥没し、至るところに落書きがしてあった。荒れた校舎を見て「校長に昇任した」という高揚感は薄らぎ、「この学校で校長をやるんだ」と覚悟した。

 在校生徒との初対面となる始業式。体育館に行くと、生徒はみな床に座ったまま。「立たせているとどこかに行ってしまうから」だという。入学式を翌日に控えて1年生はまだおらず、2、3年の生徒は半分ほどしかいない。栗原先生が壇に上がっても車座になっておしゃべりし、前を向こうともしなかった。

「用意した式辞を取りやめて壇から下り、『おへそをこっちに向けなさい!』と、呼びかけました」

 ふり返った生徒に伝えたのは、三つのことだ。

「授業と、命と、財産を大事にしよう」

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柿崎明子
ライター 柿崎明子

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