青梅街道にあふれる自動車群を掻き分けながら荻窪駅前に向かう14系統の都電。軌間が異なるため他系統とは重複せず、単独で運行されていた。高円寺二丁目~蚕糸試験場前(撮影/諸河久:1963年11月30日)
青梅街道にあふれる自動車群を掻き分けながら荻窪駅前に向かう14系統の都電。軌間が異なるため他系統とは重複せず、単独で運行されていた。高円寺二丁目~蚕糸試験場前(撮影/諸河久:1963年11月30日)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回も「都電ナンバーワン」の視点で展望した路線編として、他系統と重複せずに単独で最長距離を走った系統、それと最多系統が出合う交差点の話題だ。

【橋の上が都電とトラック、自転車でカオスの極みに? 当時の貴重な写真はこちら(計6枚)】

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 近年の鉄道は相互乗り入れが盛んで、遠出をするのも便利になった。その一方で、どこからどこまで走るのか少しわかりにくくなったのは、歳のせいだろうか。

 しかしながら、半世紀を経た都電の運行形態などは、よく記憶している。ここでは単独で「最長距離」を走った系統の話から始めよう。

 起点から終点まで他系統と重複せずに単独で運行された系統は、実は二系統しかない。離れ小島的な存在だった14系統(新宿駅前~荻窪駅前/7349m)と1952年5月に廃止された26系統(東荒川~今井橋/3189m)だ。

 14系統は他線と異なる1067mmの軌間で敷設されたため、他系統からの乗り入れ運転も不可能で、単独運行距離が7000mを越える最長距離の系統だった。1962年、営団地下鉄(現東京メトロ)丸ノ内線の全通により、他系統に先立って1963年12月に廃止された。

 冒頭の写真は月末で交通渋滞の激しかった青梅街道を走る14系統荻窪駅前行きの都電。

 未開通の環状7号線新高円寺橋陸橋の上から200mmの望遠レンズで撮影している。軌道内に乗入れた自動車群が我が物顔で走る路面電車受難時代を象徴するシーンだ。

本郷通りを走る19系統通三丁目行きの都電。画面右側が駒込浅嘉町、左側が駒込片町の旧町名だったが、現在は向丘と本駒込に改名された。画面右上には本郷消防署駒込派出所の望楼が見えている。吉祥寺前~向丘二丁目(旧称本郷肴町)(撮影/諸河久:1970年9月9日)
本郷通りを走る19系統通三丁目行きの都電。画面右側が駒込浅嘉町、左側が駒込片町の旧町名だったが、現在は向丘と本駒込に改名された。画面右上には本郷消防署駒込派出所の望楼が見えている。吉祥寺前~向丘二丁目(旧称本郷肴町)(撮影/諸河久:1970年9月9日)

 また、運行路線の一部が他系統と重複するものの単独運行距離の一番長い系統が、19系統(王子駅前~通三丁目/9628m)だ。単独運行区間は飛鳥山~松住町(1965年から外神田二丁目に改称)の6832m。わずか5m及ばず次席となったのが、21系統(千住四丁目~水天宮前/8917m)だ。こちらは千住四丁目~三ノ輪橋・三ノ輪車庫前~秋葉原駅東口の二区間が単独運行で、累計距離は6827mだった。

 写真は19系統通三丁目行きの都電が、駒込線の吉祥寺前~向ヶ丘二丁目を走る一コマ。本郷通りに面したこの一帯は、古刹・吉祥寺を始めとする大小の寺院が所在する寺町だ。画面左奥にある地久山天栄寺界隈は、江戸三大青物市場の一つ「駒込辻のやっちゃ場」の跡地で、1937年に巣鴨の豊島青果市場に移転するまで「駒込青果市場」として賑わった。
 

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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