火の山を背景に壇の浦界隈の国道9号線上を走る長関線下関駅行きの電車。写真のモ801型は山陽電軌廃止後土佐電鉄(現とさでん交通)に移籍して、高知市内で活躍している。前田~御裳川(撮影/諸河久:1968年3月29日)
火の山を背景に壇の浦界隈の国道9号線上を走る長関線下関駅行きの電車。写真のモ801型は山陽電軌廃止後土佐電鉄(現とさでん交通)に移籍して、高知市内で活躍している。前田~御裳川(撮影/諸河久:1968年3月29日)
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 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。昨夏に引き続き特別編として、諸河さんが半世紀前の学生時代に撮影した各地の路面電車の風景をお届けする。第5回は中国・四国・九州地方で活躍した山陽電気軌道、伊予鉄道松山市内線、大分交通別大線の路面電車にスポットを当てた。

【城下町の松山や温泉街の別府…美しい街並みを走る路面電車 貴重な写真の続きはこちら(計8枚)】

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 源平合戦の古戦場跡「壇ノ浦」。

 冒頭の写真は、壇ノ浦を一望する御裳川(みもすそがわ)公園を右手に見て、国道9号線上の軌道を下関駅に向かう山陽電気軌道(以下山陽電軌)長関線の電車だ。次の御裳川停留所は壇ノ浦観光の下車駅で、関門海峡を眼下に眺める「火の山」へ登る火の山ロープウェイ・壇の浦駅や、壇ノ浦で入水した安徳天皇を祀る赤間神宮も程近い。

下関の中心地唐戸交差点を走る市内線幡生行きの電車。瀟洒な洋風建築の街並みと古参のモ201型(1932年梅鉢車輛製)がベストマッチ。唐戸~西之端(撮影/諸河久:1968年3月29日)
下関の中心地唐戸交差点を走る市内線幡生行きの電車。瀟洒な洋風建築の街並みと古参のモ201型(1932年梅鉢車輛製)がベストマッチ。唐戸~西之端(撮影/諸河久:1968年3月29日)

 次のカットは長関線と市内線が分岐する唐戸交差点を走る市内線幡生行きの電車。下関の中心地といえるこの界隈は瀟洒な洋風建築が散見され、山陽電軌の路面電車と良くマッチした。右側の尖塔のある建物が1915年に竣工した旧秋田商会ビルで、屋上には日本庭園と茶室がある。現在は観光情報センターとして機能しており、屋内の見学もできる。その左隣の建物が1900年竣工の下関南部町郵便局舎で、現役最古の郵便局として国の登録文化財建築物になっている。近隣には旧下関英国領事館の建物もあり、路面電車が消えた下関の散策スポットとしておすすめする。

ひばりがさえずる長閑な単線の専用軌道を行く幡生線の下関駅行き電車。このモ301型は戦前に増備した最後の車両で、張上げ屋根仕様のスマートな存在だった。幡生~武久(撮影/諸河久:1968年3月29日)
ひばりがさえずる長閑な単線の専用軌道を行く幡生線の下関駅行き電車。このモ301型は戦前に増備した最後の車両で、張上げ屋根仕様のスマートな存在だった。幡生~武久(撮影/諸河久:1968年3月29日)

■本州最西端を走る路面電車

 山陽電軌の最後のカットは長州鉄道から引き継いだ幡生線を走る市内線下関行きの電車。幡生線はその前歴から鉄道法で運行されており、全線単線の専用軌道で敷設されていた。ちなみに、長州鉄道は1914年に東下関~小串を開業。1925年に当時の国鉄が山陰本線の一部として長州鉄道の小串~幡生を国有化した。この時、長州鉄道に残存した幡生~東下関を同社の手で電化して、電車運転が始まった。この路線を譲り受け、唐戸~東下関(後年東駅に改称)の市内線を1929年に延伸して、幡生線と結んだのが山陽電軌だった。

 本州最西端に位置する山陽電軌は、国鉄(現JR)山陽本線下関駅前と同長府駅前を結ぶ長関線と大和町線、市内線、それに市内線の終点東駅(旧称東下関)と幡生を連絡する幡生線の4線で構成され、17700mの営業距離だった。幡生線は単線、他は複線で敷設されていた。幡生線は地方鉄道法、他線は軌道法で運行され、軌間は1067mm、電車線電圧は600Vだった。1969年10月に大和町線と長関線が廃止。1971年2月に残存区間全線が廃止されたため、山陽電軌は鉄道軌道事業から撤退し、社名をサンデン交通に改称している。

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