大塚駅前で発車待ちする16系統錦糸町駅前行きの都電。画面奥の狭隘な電車道には、続行する都電や都バスがひしめき合っていた。(撮影/諸河久:1965年11月23日)
大塚駅前で発車待ちする16系統錦糸町駅前行きの都電。画面奥の狭隘な電車道には、続行する都電や都バスがひしめき合っていた。(撮影/諸河久:1965年11月23日)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は国鉄(現JR)山手線・大塚駅前を走る都電の話題だ。

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 池袋までは徒歩圏内。人気の街に程近い場所ながらも、レトロな雰囲気を残している大塚駅周辺。

 いまでこそ、巨大な繁華街である池袋の隣町といった印象もあるが、戦前戦後にかけては池袋より大塚周辺のほうが賑わいをみせていたということは、若い読者には信じられないだろう。花街として栄え、料理屋などが軒を連ねていたそうだ。

 冒頭の写真は大塚駅前で発車を待つ16系統錦糸町駅前行きの都電。大塚駅前から錦糸町駅前まで、営業距離10000mに及ぶロングラン路線の一つで、下町方面に向かう乗客で賑わった。戦前は17系統として大塚駅前から隅田川を渡り、厩橋一丁目(後年本所一丁目に改称)で折り返していた。

■商店街として発展した南口

 大塚駅南口は国鉄(現JR)、王子電気軌道(以下王子電軌)、東京市電(以下市電)の交通網が整った大正期から昭和初期にかけて、開発が遅れた池袋を凌いで、城北の中心地になる勢いで発展した。市電が走る南大塚通りは繁華街となり、フルーツパーラーなどのハイカラな店が出店し、駅の北側には白木屋デパートも進出している。戦後になっても、都電の後方に見えるような往時を彷彿させる商店や飲食店街が健在だった。

道路が拡張されて、昔日の面影が無くなった大塚駅南口。待機している都バスは都電16系統の末裔にあたる都02系統錦糸町駅行き。(撮影/諸河久:2020年7月11日)
道路が拡張されて、昔日の面影が無くなった大塚駅南口。待機している都バスは都電16系統の末裔にあたる都02系統錦糸町駅行き。(撮影/諸河久:2020年7月11日)

 先日、半世紀ぶりに大塚駅前の街並みにカメラを向けた。次のカットがバス通りに変貌した南大塚通りだ。旧景の右端に写っている三菱銀行大塚支店は1973年に改築され、今井三菱ビルに変貌している。南口の道路拡幅時に、旧景に写る山海楼を始めとする左側の街並みがセットバックされて、かつての面影すら辿ることができなかった。

■山手線に電車運転が開始される

 山手線に大塚駅が開業したのは1903年だった。日本鉄道が敷設したが、その後1906年に国有化され、1909年12月からは電車運転が開始されている。この国鉄大塚駅(現JR)に路面電車がアクセスしたのは1911年8月で、王子電軌が敷設した大塚線(飛鳥山~大塚)の開通によるものだった。ちなみに、大塚線の呼称は1942年東京市に吸収後は滝野川線となり、現在は荒川線に変更されている。

 いっぽう、市電による大塚駅へのアクセスは、1911年に大塚辻町(後年新大塚に改称)まで開通していた大塚線を延伸して、大塚停車場前(後年大塚駅前に改称)に達したのは1913年4月だった。大塚駅への延伸が遅れたのは、大塚駅の所在地が東京府域であったことと推察される。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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