生活感溢れる大塚駅前を走る32系統荒川車庫行きの都電。王子電軌引継ぎの160型が稼働していた。画面手前には大塚駅前折り返し用の分岐器が写っている。向原~大塚駅前(撮影/諸河久:1965年11月23日)
生活感溢れる大塚駅前を走る32系統荒川車庫行きの都電。王子電軌引継ぎの160型が稼働していた。画面手前には大塚駅前折り返し用の分岐器が写っている。向原~大塚駅前(撮影/諸河久:1965年11月23日)
大塚の街は高層化され、都電軌道もカラーアスファルトで舗装された55年後の定点撮影。向原~大塚駅前 (撮影/諸河久:2020年7月11日)
大塚の街は高層化され、都電軌道もカラーアスファルトで舗装された55年後の定点撮影。向原~大塚駅前 (撮影/諸河久:2020年7月11日)

 このカットは画面の左側から続く急峻な天祖坂を下って、画面右に急カーブを切るために減速した32系統荒川車庫前行きの都電だ。手前に写っているのが、王子駅方面から来た都電が大塚駅前折り返し時に使う分岐器で、現在は大塚駅前停留所付近に移設されている。

 天祖坂とは画面左奥に位置する「天祖神社」から命名された。ちなみに、この神社は昔日の巣鴨村の鎮守様で、領主の豊島氏が伊勢の皇大神宮から分霊を勧請したことに始まる古刹だ。

 現況のカットも紹介しよう。荒川線の向原から天祖坂を下ってきた荒川線(別称東京さくらトラム)の都電だ。天祖坂は大塚駅前から向原にかけて、上り53パーミルの急勾配区間として知られている。高層化された背景の街並みやカラーアスファルトで舗装された軌道敷きが、旧景に見られる「下町エレジー」のような悲哀に富んだ昭和のイメージを払拭していた。

山手線高架下の大塚駅前停留所に停車する32系統早稲田行きの都電。早稲田に向かう軌道は大塚駅前停留所から右にカーブを切っていた。画面右端には大塚駅前派出所が見える。(撮影/諸河久:1965年11月23日)
山手線高架下の大塚駅前停留所に停車する32系統早稲田行きの都電。早稲田に向かう軌道は大塚駅前停留所から右にカーブを切っていた。画面右端には大塚駅前派出所が見える。(撮影/諸河久:1965年11月23日)

 国鉄山手線(現JR)高架下に設置された大塚駅前停留所に停まる32系統早稲田行きの都電のカットも紹介しよう。撮影の前年に杉並線から転入した2500型が充当されていた。後方からは王子電軌引継ぎの170型が続いている。画面右側の大塚駅前派出所(現大塚駅前交番)の前で客待ちしているのは、懐かしい「プリンス・グロリア」のタクシーだ。大塚駅前は開業当初大塚と呼ばれていたが、1938年に王電大塚に改称された。市営になってから、現在の大塚駅前に再度改称されている。
 
 王子電軌は早稲田線(現荒川線)として大塚から早稲田に向けて路線を延長していった。1924年11月には途中の鬼子母神前までが開通し、終点早稲田には1932年に到達している。

■急曲線で直通客は徒歩で乗継

 大塚以南が開通した当初「大塚線と早稲田線の直通運転ができなかった」というエピソードが残っている。大塚線と早稲田線は軌道が繋がったものの、あまりの急曲線で営業線としての認可がおりなかった。急曲線を挟んで46m離れた双方の終端に大塚停留所が設置され、直通する乗客は徒歩による乗継を強いられたそうだ。1928年5月に急曲線を緩和した連絡線が新設され、乗継乗車は解消された。

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コロナ禍で人通りも疎ら