鮮明なコダクロームIIフィルムで撮影した12系統の市電とポール集電の京福電鉄/嵐山本線の電車。 西大路三条(撮影/諸河久:1975年11月22日)
鮮明なコダクロームIIフィルムで撮影した12系統の市電とポール集電の京福電鉄/嵐山本線の電車。 西大路三条(撮影/諸河久:1975年11月22日)

 鉄道写真家の諸河久さんが路面電車を撮影するようになったのは56年前の高校生の頃。この時代にカメラなどの大きな機材を抱えて全国をめぐるようになった。およそ半世紀前の観光地や地方都市を走った路面電車と街並みは、東京とは異なる文化と土地柄が写し出されていて味わい深い。前回に引き続き夏休み特別編として、諸河さんが高校や大学の学生時代に撮影した約50年前の観光地や都市部の貴重な写真をお届けする。今回は、古都「京都」の都大路を気高く走った京都市交通局(以下、京都市電、市電)の路面電車だ。

【美しい京都の町並みに映える51年前の路面電車など、当時の貴重な写真はこちら(全5枚)】

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 京都に路面電車は、よく似合う。

 いまや年間の観光客数は5千万人を超えるという京都市。あまりに観光客が増えすぎて、市内観光の貴重な足となるバスが混雑しすぎているというから、一長一短というべきか。

 写真を撮影したのは44年前の20代後半。別カットは学生時代に撮影しているが、この写真のみプロになってから写したものだ。その頃から京都は観光客が増え始めたという。現在のように外国人が歩くことはまばらで、ほとんど見かけることはなかった。

 だが、その町並みには「バスよりも路面電車のほうが調和する」と感じるのは筆者だけだろうか。

半世紀後の四条河原町交差点。祇園祭山鉾が巡行する雅な光景(撮影/諸河久:2013年7月17日)
半世紀後の四条河原町交差点。祇園祭山鉾が巡行する雅な光景(撮影/諸河久:2013年7月17日)

■京都人の意地

 古都京都の町に路面電車が走ったのは1895年であった。これは日本における初めての営業路面電車線で、七条停車場~伏見下油掛6700mを京都電気鉄道(以下京電)が敷設したものだった。東京市に路面電車が走る五年前の快挙で、都を東京に遷都された京都人の意地が感じられる。

 京電は以降路線の延伸を進め、京都市内の主要な交通機関となった。これに対して京都市は京電の買収を計画したが実現せず、1912年になって一部の路線で市営電車の運行が開始された。京電は1067mm、市営は1435mmの軌間で路線を敷設したため、両者の路線が重複する区間では三線式の軌道が敷設されることとなった。

 1918年に京都市は京電を買収することになり、京電の路線は改軌と同時に運行が改編された。この時に余剰となった狭軌用の車両は、名古屋、呉、金沢、富山、秋田など日本各地に売却された。ちなみに、1961年に「N電」の愛称で親しまれ、惜しまれながら廃止された北野線は旧京電の面影を伝える唯一の狭軌路線だった。現在、梅小路公園の「市電ひろば」や犬山の「明治村」でN電が動態保存されており、明治の路面電車を現体験することができる。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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