派手な映像よりも地道なインタビューを土台に据える。分断をつなぐため、立場の異なる相手にも敬意を持って取材に臨む。「バッシング 陰謀論と情報戦」の撮影でデマブログの運営を手伝った男性に話を聞く(撮影/小黒冴夏)
派手な映像よりも地道なインタビューを土台に据える。分断をつなぐため、立場の異なる相手にも敬意を持って取材に臨む。「バッシング 陰謀論と情報戦」の撮影でデマブログの運営を手伝った男性に話を聞く(撮影/小黒冴夏)

■沖縄の記者に励まされ秀作を量産していく

 この頃、MBSを退職して関西大学の教授になっていた報道局OBの里見繁は斉加から電話をもらっている。

「大学に会いに来て、会見のことを話すので、あれはよく市長に当てたな、会社に戻ったら、報道のフロアは拍手喝采(かっさい)だったろう、と言ったら、その逆だったようで、僕も驚きました」

 あの当時の斉加は報道局でも白い目で見られていたと思う、と里見は言った。本人は「悔しいという感情ではなかったです。それよりも自分が信じていたテレビ報道が知らない間に変質してしまったのだという感慨の方が大きかった」。

 組織の空気が変わりつつあるのを感じていたが、斉加は以降、反論も愚痴も一切出さず、粛々と大阪の教育現場の取材を続けていった。この間もずっとネット上では、反日記者、不勉強でとんちんかんなMBSの女性記者という一方的な言説が流通していた。15年に月イチのドキュメンタリー番組「映像」シリーズのレギュラーディレクターに就くと、最初の作品「なぜペンをとるのか~沖縄の新聞記者たち~」の撮影のために那覇に飛んだ。沖縄の2紙は左翼に偏向しているという中傷が絶えずぶつけられていた。斉加はメディアにとっての中立とは何かを探るために密着取材を試み、そこで沖縄タイムス編集局長(当時)の武富和彦からこんな言葉をもらう。

「一方に絶対的な権力を持っている権力者がいるわけですよ。一方には基本的人権すら守られていない人びとがいる。力の不均衡がある以上は弱いものの声を代弁することこそメディアのあるべき姿だというふうに思っています」

 沖縄では、大阪とまったく逆の現象が起こった。名刺を差し出した琉球新報の報道本部長が「ああ、あの斉加さん!」と感極まった声をあげたのだ。橋下への取材を失礼と捉えるどころか、リスペクトの目で見られていた。自らの手でわが子を手にかけることさえ強いられた沖縄戦を生き抜いた高齢者たちから取材を学んだという沖縄の新聞記者たちには、中央の記者が手放しかけていたジャーナリズムのマインドが満ち溢(あふ)れていた。沖縄に励まされるように、斉加は秀作を量産していく。

「沖縄 さまよう木霊」では、MXテレビの番組「ニュース女子」にまであふれ出た沖縄基地反対運動に対するデマの出どころを突き止める。取材中から、デマの発信者にネット上で攻撃にさらされるが、毅然と同業他社を正面から批判した。あとを追うようにBPO(放送倫理・番組向上機構)がMXの同番組に「重大な放送倫理違反があった」と認定した。調査報道の面目躍如だった。

 そして17年7月にテレビ版の「教育と愛国」を作り上げる。5年後の映画化の大ヒットも含め、橋下からの面罵への回答を作品できっちりと示したかたちになった。里見に「あの囲み取材のときに記者たちがいっせいに市長に質問を投げかけていたら、こういう映画を作らずに済んだのではないですか」と尋ねると、「そうかもしれませんね。斉加は常に作品を通じて机を叩(たた)いて訴えているんですよ。私たちはテレビ局の中で守られているけど、こんなに危ない社会の状況下でぼっとしていていいのかと」。

 年をまたいだ18年、斉加は自らの身をさらすかたちで「バッシング~その発信源の背後に何が~」を制作する。何の瑕疵(かし)も無くただ朝鮮学校への補助金交付などを求めた弁護士たちに対して13万件もの懲戒請求がなされるという異常な事態が起きるが、そのきっかけが、ヘイトブログのデマであったことをあぶり出した。

(文中敬称略)

(文・木村元彦)

※記事の続きはAERA 2023年3月27日号でご覧いただけます