「クラリスに何が起きたか、観る前の人には明らかにしないでほしい」と監督は言う。パズルのように緻密に組み合わされた物語には、家庭と自己のはざまで揺れる女性=母親の葛藤や懺悔の気配が、リアルに立ち上がる。監督は「逃げたくなる」心理をとてもよく理解しているようだphoto (c)2021 - LES FILMS DU POISSON - GAUMONT - ARTE FRANCE CINEMA - LUPA FILM
「クラリスに何が起きたか、観る前の人には明らかにしないでほしい」と監督は言う。パズルのように緻密に組み合わされた物語には、家庭と自己のはざまで揺れる女性=母親の葛藤や懺悔の気配が、リアルに立ち上がる。監督は「逃げたくなる」心理をとてもよく理解しているようだphoto (c)2021 - LES FILMS DU POISSON - GAUMONT - ARTE FRANCE CINEMA - LUPA FILM

 フランスの地方都市。早朝、クラリス(ヴィッキー・クリープス)は夫と幼い息子と娘の寝顔を見て家を出る。彼女は家庭を放棄したのか? それとも──?連載「シネマ×SDGs」の20回目は、すべてがわかったとき、驚きとともに深い感動が押し寄せる、ミステリアスな映画「彼女のいない部屋」のマチュー・アマルリック監督に話を聞いた。

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 映画のもとになったクロディーヌ・ガレアの戯曲を読んだとき、電車の中で号泣してしまったんだ。恥ずかしすぎて、ジャケットを被って顔を隠したくらいだ。4年前に脚本を書き始めてすぐにヴィッキー・クリープスが頭に浮かんだ。まだ脚本はできていなかったけれど、すぐに彼女にパリで会った。あのときは本当に双子の片割れに出会ったような感覚だったよ。

 (c)2021 - LES FILMS DU POISSON - GAUMONT - ARTE FRANCE CINEMA - LUPA FILM
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 冒頭で彼女が演じるクラリスは家族を置いて家を出る。観客は一瞬「この女性はよくないことをしている」とか「自分には勇気がないけどうらやましい」などジャッジをするかもしれない。誰にでも「もうこんな日常はたくさんだ!」と思う瞬間がきっとあるはずだ。夫婦生活や愛を同じ気持ちで続けていくことは、月世界旅行よりもはるかに難しい。「出て行きたい!」と考えないと、人生はあまりにもたまらなく、耐えがたいだろう。

 でも最後まで観ると、観客はまったく違う感情、どこか崇高な感覚を持つと思う。それがこの物語に惹かれた理由だ。しかも謎はなく、すべてはきちんと明かされる。

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 クロディーヌに「これは自伝?」と聞いたらそうではなく、夢が元になっていると話してくれた。女性の手がドアノブにかかっていて、帰ってきたのか、出て行こうとしているのかわからなかった。そこから物語を紡いでいったそうだ。

マチュー・アマルリック(Mathieu Amalric)/監督、脚本。1965年、フランス生まれ。「007 慰めの報酬」(2008年)などで国際的な俳優として知られる。監督としても活躍し「さすらいの女神たち」(10年)でカンヌ国際映画祭の監督賞などを受賞。全国順次公開中
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マチュー・アマルリック(Mathieu Amalric)/監督、脚本。1965年、フランス生まれ。「007 慰めの報酬」(2008年)などで国際的な俳優として知られる。監督としても活躍し「さすらいの女神たち」(10年)でカンヌ国際映画祭の監督賞などを受賞。全国順次公開中 (c)2021 - LES FILMS DU POISSON - GAUMONT - ARTE FRANCE CINEMA - LUPA FILM

 僕自身、逃げたくなることがあるかって? 僕は現実の中で想像力を膨らませることができる。例えばバスの中で人の顔を見ながら「この人はどんな人生を送っているんだろう」と想像する。すると現実にいながら、そこから浮遊することができるんだ。それにいま一緒に暮らしている歌手で指揮者のバーバラ・ハンニガンも、僕を違う世界に連れて行ってくれる。僕はラッキーな状況にあると思うよ。

(取材/文・中村千晶)

AERA 2022年9月19日号