フランスの地方都市。早朝、クラリス(ヴィッキー・クリープス)は夫と幼い息子と娘の寝顔を見て家を出る。彼女は家庭を放棄したのか? それとも──?連載「シネマ×SDGs」の20回目は、すべてがわかったとき、驚きとともに深い感動が押し寄せる、ミステリアスな映画「彼女のいない部屋」のマチュー・アマルリック監督に話を聞いた。
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映画のもとになったクロディーヌ・ガレアの戯曲を読んだとき、電車の中で号泣してしまったんだ。恥ずかしすぎて、ジャケットを被って顔を隠したくらいだ。4年前に脚本を書き始めてすぐにヴィッキー・クリープスが頭に浮かんだ。まだ脚本はできていなかったけれど、すぐに彼女にパリで会った。あのときは本当に双子の片割れに出会ったような感覚だったよ。
冒頭で彼女が演じるクラリスは家族を置いて家を出る。観客は一瞬「この女性はよくないことをしている」とか「自分には勇気がないけどうらやましい」などジャッジをするかもしれない。誰にでも「もうこんな日常はたくさんだ!」と思う瞬間がきっとあるはずだ。夫婦生活や愛を同じ気持ちで続けていくことは、月世界旅行よりもはるかに難しい。「出て行きたい!」と考えないと、人生はあまりにもたまらなく、耐えがたいだろう。
でも最後まで観ると、観客はまったく違う感情、どこか崇高な感覚を持つと思う。それがこの物語に惹かれた理由だ。しかも謎はなく、すべてはきちんと明かされる。
クロディーヌに「これは自伝?」と聞いたらそうではなく、夢が元になっていると話してくれた。女性の手がドアノブにかかっていて、帰ってきたのか、出て行こうとしているのかわからなかった。そこから物語を紡いでいったそうだ。
僕自身、逃げたくなることがあるかって? 僕は現実の中で想像力を膨らませることができる。例えばバスの中で人の顔を見ながら「この人はどんな人生を送っているんだろう」と想像する。すると現実にいながら、そこから浮遊することができるんだ。それにいま一緒に暮らしている歌手で指揮者のバーバラ・ハンニガンも、僕を違う世界に連れて行ってくれる。僕はラッキーな状況にあると思うよ。
(取材/文・中村千晶)
※AERA 2022年9月19日号