「これまで地域の人たちとの関係ができていない美術館が苦労している姿を多く見てきました。まずは地元の人たちをはじめ、来ていただく方々に豊かさの実感を持ってもらうのが重要。公共施設としての美術館は地方自治体にとって負担が大きく、たとえば予算削減や閉館の議論が起きた時、存続の声が地元からあがらないと財政の論理だけで話が進んでしまうので」

白髪一雄《赤牌》1970年 大阪中之島美術館蔵(photo 大阪中之島美術館提供)
白髪一雄《赤牌》1970年 大阪中之島美術館蔵(photo 大阪中之島美術館提供)

■時代の要請で変化

 実は大阪中之島美術館は、開館に至るまで約40年かかっている。1983年、大阪市が市制100周年記念事業として、近代美術館建設の基本構想を打ち出して以降、バブル崩壊後の財政難による整備計画の遅延や、市長の方針転換で市立美術館との統合案が出るなどの曲折を繰り返してきた。その時々で、時代の要請に応じた計画をつくり直し、民間企業が運営するPFIコンセッション方式を国内の美術館として初めて導入し、いま、前例のない手法での運営が行われている。

 どんどん変わっていくのは、中之島のまち自体もそうだ。水運が盛んだった江戸期の蔵屋敷が立ち並ぶ風景から、明治以降は経済や政治、文化の拠点として、都市の姿に様変わりしていった。現在も時代に必要とされる姿に変わり続けており、そんなまちの性格が、時代の要請に合わせて変わってきた美術館の成り立ちと重なってみえる。

 美術館は、外の芝生広場も気持ちがいい。水辺の眺めがあり、夜景もきれいだ。ここでは、まちなかにある「島」ならではの景色が味わえる。大阪在住の友人は、コロナ下であらゆる施設が閉まっていた時期、美術館の周辺を散歩して気分転換していた。この場所は、まちの人の寄る辺にもなっている。

 大阪というフィルターを通して見えるまちの姿は、それを見る人の数だけ多様だ。その見え方は、今の時代を生きる一人ひとりのありようと地続きにあるものだろう。

 新しい美術館のありようは始まったばかりだが、「30年の目」の根っこが支えている。ここから始まるアート。その可能性の芽がどうのびていくのか、見つめていきたい。(ライター・桝郷春美)

AERA 2022年9月12日号より抜粋