金城京一さんが20歳で復帰前の沖縄を出る際に携帯していたパスポート「日本渡航証明書」。琉球列島米国民政府が1969年に発行。(撮影/写真映像部・東川哲也)
金城京一さんが20歳で復帰前の沖縄を出る際に携帯していたパスポート「日本渡航証明書」。琉球列島米国民政府が1969年に発行。(撮影/写真映像部・東川哲也)

 昼どきの商店街で行列を目撃した。1955年創業の沖縄そば店「ヤージ小」の客だ。慌ただしく働く社長の雪山秀人さん(59)は「おばあちゃんから引き継いだ店です」と明かした。

 創業者は沖縄市泡瀬出身で06年生まれの祖母、屋宜ナベさん。夫を亡くし、幼い娘2人とともに沖縄を離れたナベさんは兵庫県尼崎市で終戦を迎え、戦後の混乱期に鶴見に移った。「ヤージ小(グヮー)」は旧姓の「屋宜」が由来。「グヮー」は沖縄の言葉で、「~ちゃん」といった愛称のニュアンスがある。雪山さんはこの店名を大事に守り続けている。

 ナベさんは93歳で他界。小学生の頃から店を手伝っていた雪山さんは、ナベさんの記憶を濃厚に焼き付けている。

「とにかく豪快な人。男とか女とかを超越していましたね」

 当時は客のほぼ全員が沖縄出身者。泡盛を飲んで盛り上がり、三線を手に沖縄民謡を歌い始めると、ナベさんも上機嫌になった。苦労した分、普段はお金に厳しいナベさんが「お代はいらないよ」と大盤振る舞い。そんなナベさんの気性に惚(ほ)れこむ常連客が絶えなかった。

 店の運転資金は仲間どうしで融通する「模合(もあい)」で調達していた。銀行からお金を借りることはなく、預金通帳の名もなぜか、「キヨ」だった。読み書きができなかったナベさんの胸中を、雪山さんはこう推し量る。

「もとの名は正確には、『ナビー』だったはずですが、『ー』の部分を口でどう伝えていいのかわからず、『ナベイ』や『ナベ』と名乗るようになったのだと思います。銀行の窓口で名前を伝えて怪訝(けげん)に思われるのも面倒だから、とっさに『キヨ』と名乗ったんじゃないですかね」

 店を継いで30年超。コロナ禍もリピート客が絶えず、売り上げは落ちなかった。雪山さんは「店の行列をおばあちゃんに見せてあげたい」と話す。

「沖縄の人が自分のアイデンティティーを誇れる時代になったよ。隠すことは何もないよ。世の中はこんなに変わったんだよって言ってあげたい」

(編集部・渡辺豪)

AERA 2022年5月16日号より抜粋

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渡辺豪

渡辺豪

ニュース週刊誌『AERA』記者。毎日新聞、沖縄タイムス記者を経てフリー。著書に『「アメとムチ」の構図~普天間移設の内幕~』(第14回平和・協同ジャーナリスト基金奨励賞)、『波よ鎮まれ~尖閣への視座~』(第13回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞)など。毎日新聞で「沖縄論壇時評」を連載中(2017年~)。沖縄論考サイトOKIRON/オキロンのコア・エディター。沖縄以外のことも幅広く取材・執筆します。

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