断トツの優勝回数と勝利数(AERA 2021年10月11日号より)
断トツの優勝回数と勝利数(AERA 2021年10月11日号より)

 白鵬自身、後日、相撲の勉強と観光旅行のようなつもりで来日したと明かしている。最終的には涙を拭い、入門を決意した。

 それから10年後の10年春のことだった。朝井さんは白鵬からこう言われた。

「大阪の宮城野部屋の宿舎で一緒に風呂に入っているときだったと思います。『大会を開きたいから力を貸してください』と」

 ひょろひょろだった少年は190センチ、150キロを超える大横綱として土俵に君臨していた。その大会とは子どもたちの相撲大会のこと。それも、モンゴルからも集めた大規模なものだ。現役力士が自ら音頭を取り、全国規模の子どもの相撲大会を開くのは異例だった。

 白鵬は自分を育ててくれた日本の相撲に恩を感じ、相撲大会を開きたいという思いを以前から抱いていた。それに加えて、当時、相撲界では八百長問題などの不祥事が相次ぎ、11年3月の春場所(大阪)が中止という前代未聞の事態に至る。そんな危機だからこそ、かねて温めていた相撲大会を実現したいと考え、当時、大阪府相撲連盟理事長を務めていた朝井さんに話を持ち掛けたのだ。

 朝井さんはもろ手を挙げて賛成したわけではない。全国規模の大会を初めて実施するとなれば準備期間は1年以上必要だ。一方、白鵬は年内には開催したいという。何度も話し合い、最終的にはその思いを受け止めた。準備は予想以上に難航したが、粘り強く交渉を繰り返した。

■普及に貢献する白鵬杯

 10年の12月19日、大阪・堺の大浜公園相撲場で、少年相撲大会「白鵬杯」が開催された。モンゴルの子どもたちも含め790人が参加し、大盛況だった。

 白鵬杯はその後も形や時期を変えながら継続。今年は新型コロナ禍で中止となったが、昨年は第10回の記念大会を国技館で開催した。モンゴルだけでなく世界14カ国・地域から千人以上の子どもたちが集まった。予選を勝ち抜かなくてもエントリーすればだれでも参加できるのが大きな特徴で、相撲普及に果たす役割の大きさは計り知れない。(相撲ライター・十枝慶二)

AERA 2021年10月11日号より抜粋