その後の経過は登場人物があまりに多く、複雑な話になるので端折るが、建安18年(213年)に董昭の提案に従い魏公となり、建安21年(216年)に魏王に封じられ没後ではあるが、息子の曹丕が献帝から禅譲を受け皇帝となると、太祖武帝と追号された。簒奪(さんだつ)の汚名を受けずに皇帝になるという思いは達成できたのである。

■頭の痛い権力者を治せた「華佗」

 曹操は権門の家に生まれたが、徹底した能力主義者だった。財力と権力はあっても貴族の中で軽蔑されていた宦官の養子の出というコンプレックスに加えて、無能な皇族や名門貴族の御曹司たち、建前の孝養と仁を説くばかりの儒者たちに愛想をつかしていたに違いない。特にその才を重んじたのは、魏の司令官として諸葛孔明と死闘を繰り広げた司馬懿仲達であろう。

 医師としては、中国史最高の名医とされる華佗を侍医とした。華佗は西域(イラン系)出身とも言われるが、古典的な漢方薬のみならず、麻沸散(まふつさん)による外科手術や駆虫術を得意とし、敵方だった関羽の手術にも呼ばれ執刀している。

 曹操の持病は頭痛であった。原因はよくわからない。

 脳外科の開業医で医学史にも詳しい若林利光博士は、妄想などの精神症状から脳腫瘍であったという仮説を提唱しておられるが、他に麻痺やけいれんなど具体的な身体症状の記録も無ければ今ならばすぐに撮影できるCTやMRIも無いのでその当否を判断するのは難しい。華佗の鍼治療や投薬で症状がかなり改善していることからよくある緊張性頭痛や偏頭痛だったのかもしれない。

■華佗「獄死」の後悔

 しかし、曹操はこの名医を収監し、獄死させてしまう。理由は主君の召命に服さなかったためとも敵方の武将も治療することで秘密が漏れることを恐れたためとも言われる。いずれにせよ、華佗の没後曹操の頭痛を治せる医師はおらず、曹操は多いに後悔したという。

 さらに影響が大きかったのは、曹操の息子の一人で後継者に目していた曹沖が程なく13歳で早世してしまったことである。曹操は華佗がいれば息子は助かったのに、と嘆いたという。曹操の後を継いだ曹丕(文帝)、孫の曹叡(明帝)はともに凡庸で、さらにその後を継いだ幼帝・曹芳(卑弥呼が使者を送った相手ではあるが)は何もできないため司馬懿の孫・司馬炎が禅譲を受けて晋の武帝となる。つまり、曹操は有能な医師を排したため、自らの健康のみならず王朝も終らしめたことになる。

 昨今、欧米やさらに日本でも不可抗力の結果に対しても民事さらに刑事でも訴訟を起こすなど医師バッシングの風潮があるが、これをみていると不安になるエピソードである。(文/早川 智)

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早川智

早川智

早川智(はやかわ・さとし)/1958年生まれ。日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授。医師。日本大学医学部卒。87年同大学院医学研究科修了。米City of Hope研究所、国立感染症研究所エイズ研究センター客員研究員などを経て、2007年から現職。著書に戦国武将を診る(朝日新聞出版)など

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