
『戦国武将を診る』などの著書をもつ日本大学医学部・早川智教授は、歴史上の偉人たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたかについて、独自の視点で分析する。今回は三国志の英傑・曹操を「診断」する。
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私たちのイメージする歴史上の人物は、後世の作家が描いた人物像に基づいていることが多い。代表的なのがいわゆる「司馬史観」で、戦国の英雄や維新回天の志士として描かれるとよいが、悪役や無能な軍人とされると子孫の方は肩身が狭いだろうと思う。以前、ご先祖が、維新後は子爵に叙せられた勇猛な薩摩藩士だったが、司馬遼太郎先生に「悪役にされてしまった」と嘆いていた上品な老紳士を思い出す。
さて、中国のみならず台湾、香港、シンガポールなど中華文化圏で誰もが知っているキャラクターは三国志の登場人物、智将・諸葛孔明、人徳者の劉備玄徳、勇猛果敢な関羽と張飛、そして悪の権化・魏の曹操であろう。実際のところは「司馬史観」同様にこのイメージは明代の歴史小説「三国志演義」に基づくものであり、史実はまた違っている。しかし、これらの人びとが2千年を越える中国史を彩る群雄の中で知力胆力とも最も優れた人物たちであり、曹操がその中でも抜きん出た存在であったことは間違いない。
高級官吏の子として生まれ
後漢の丞相で後に魏の国王となる曹操は、宦官の養子で高級官吏だった曹嵩の子として生まれた。若年は無頼の徒であったが名門の生まれが幸いし若くして洛陽北部尉、頓丘県令、議郎を歴任した。やがて中国全土をゆるがす「黄巾の乱」が起こると、騎都尉(きとい)としてこれを討伐し、西園八校尉に任命された。
しかし、十常侍ら宦官の跋扈を憎んだ将軍・董卓が天下を取り、宮廷内が乱れると、曹操は洛陽から落去した。後に皇帝から、黄巾討伐の詔勅を受けるとこれを討伐して降伏した精兵を支配下に入れて力を蓄えた。対立する袁術と陶謙に父・曹嵩他一族を伐たれた曹操は大軍を率いて徐州に侵攻、董卓を倒した勇将・呂布や袁紹と死闘を繰り広げるが、建安5年(200年)、「官渡の戦い」でかつての友であり後に最大の敵となった袁紹を破り、後漢王朝最大の実力者として建安13年(208年)年には献帝に丞相に任じられ天下を握る。しかし、これを認めない蜀の劉備、呉の孫権といわゆる三国志を繰り広げていく。
その後の経過は登場人物があまりに多く、複雑な話になるので端折るが、建安18年(213年)に董昭の提案に従い魏公となり、建安21年(216年)に魏王に封じられ没後ではあるが、息子の曹丕が献帝から禅譲を受け皇帝となると、太祖武帝と追号された。簒奪(さんだつ)の汚名を受けずに皇帝になるという思いは達成できたのである。
頭の痛い権力者を治せた「華佗」
曹操は権門の家に生まれたが、徹底した能力主義者だった。財力と権力はあっても貴族の中で軽蔑されていた宦官の養子の出というコンプレックスに加えて、無能な皇族や名門貴族の御曹司たち、建前の孝養と仁を説くばかりの儒者たちに愛想をつかしていたに違いない。特にその才を重んじたのは、魏の司令官として諸葛孔明と死闘を繰り広げた司馬懿仲達であろう。
医師としては、中国史最高の名医とされる華佗を侍医とした。華佗は西域(イラン系)出身とも言われるが、古典的な漢方薬のみならず、麻沸散(まふつさん)による外科手術や駆虫術を得意とし、敵方だった関羽の手術にも呼ばれ執刀している。
曹操の持病は頭痛であった。原因はよくわからない。
脳外科の開業医で医学史にも詳しい若林利光博士は、妄想などの精神症状から脳腫瘍であったという仮説を提唱しておられるが、他に麻痺やけいれんなど具体的な身体症状の記録も無ければ今ならばすぐに撮影できるCTやMRIも無いのでその当否を判断するのは難しい。華佗の鍼治療や投薬で症状がかなり改善していることからよくある緊張性頭痛や偏頭痛だったのかもしれない。
華佗「獄死」の後悔
しかし、曹操はこの名医を収監し、獄死させてしまう。理由は主君の召命に服さなかったためとも敵方の武将も治療することで秘密が漏れることを恐れたためとも言われる。いずれにせよ、華佗の没後曹操の頭痛を治せる医師はおらず、曹操は多いに後悔したという。
さらに影響が大きかったのは、曹操の息子の一人で後継者に目していた曹沖が程なく13歳で早世してしまったことである。曹操は華佗がいれば息子は助かったのに、と嘆いたという。曹操の後を継いだ曹丕(文帝)、孫の曹叡(明帝)はともに凡庸で、さらにその後を継いだ幼帝・曹芳(卑弥呼が使者を送った相手ではあるが)は何もできないため司馬懿の孫・司馬炎が禅譲を受けて晋の武帝となる。つまり、曹操は有能な医師を排したため、自らの健康のみならず王朝も終らしめたことになる。
昨今、欧米やさらに日本でも不可抗力の結果に対しても民事さらに刑事でも訴訟を起こすなど医師バッシングの風潮があるが、これをみていると不安になるエピソードである。(文/早川 智)
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