歴史学者の河西秀哉が指摘するように、ここには東日本大震災からの影響が認められる(『明仁天皇と戦後日本』、洋泉社新書、16年)。

 平成という時代は、都市と地方の格差が拡大し、切り捨てられた地方の過疎化や高齢化が進んだ時代だった。平成に起こった自然災害の多くは、そうした地方で発生した。天皇と皇后は被災地を積極的に訪れることで、平成の政治に対する最も根本的な批判者になったと見ることもできよう。

 だが、憲法で国政に関する権能を有しないとされている天皇と皇后しか分断した社会を統合する役割を果たせないとすれば、民主主義にとってきわめて危ういと言わざるを得ない。

 天皇が「権力」をもっていることは、16年8月の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」でも示された。それ以前には、天皇の退位を主張する一般国民は皆無に等しかったにもかかわらず、「おことば」が発表されると、ほとんどの国民が退位を支持したからだ。圧倒的な民意を作り出す主体になっている点で、天皇明仁は1945年8月の玉音放送でポツダム宣言の受諾を表明したときの昭和天皇に重なって見える。

 平成の終焉に際して、敗戦のときの光景が再現されたのだ。それは皇太子・皇太子妃時代から約60年間にわたり、全国各地を二人で回ってきた成果にほかならなかった。(文中敬称略)(放送大学教授・原武史)

AERA 2019年4月29日-2019年5月6日合併号より抜粋