明治以来、歴代の天皇は行幸だけでなく、全国各地を回る巡幸を繰り返してきた。明治天皇は天皇になってから巡幸を始めたが、大正天皇以降は皇太子時代から全国各地や保護国を含む外国を回り始めた。
大正天皇は皇太子時代に沖縄県を除く全道府県を回った。昭和天皇も皇太子時代に沖縄県を含む全道府県を一巡している。いずれも伊勢神宮や神武天皇陵への結婚奉告などを除いて皇太子妃は同行せず、もっぱら皇太子だけが地方を訪れた。
一方、皇太子明仁は1959(昭和34)年に結婚すると、皇太子妃美智子とともに全国を回り始める。89年に天皇と皇后になるまでに、全都道府県を二人で一巡し、山口県、高知県、佐賀県を除く都道府県に二人で2回以上訪れている。明仁と美智子が常に行動をともにする「平成」の原型は、昭和期につくられている。
最初の本格的な地方視察は、61年の長野県行啓であった。この行啓で早くも、同時代の昭和天皇と香淳皇后の行幸啓との違いが明らかになる。穂高町(現・安曇野=あずみの市)の養護老人ホーム「安曇寮」を訪れたとき、美智子妃がひざまずいたのだ。
「美智子さまは、タタミにヒザをおろし、室内の鈴木まさえさん(68)中村たつさん(73)らと顔をよせるようにして『ここへきて何年になります。町へもときどきは出かけますか』などご質問。耳の遠い老人たちがぽつぽつお答えすることばに、やさしくうなずいておられた」(「信濃毎日新聞」61年3月28日)
当時の写真を見ると、ひざまずいているのは美智子妃だけで、皇太子は立っている。昭和天皇と香淳皇后も福祉施設を訪れることはあったが、ひざまずくことはなかった。皇太子は「昭和」のスタイルを踏襲していたのに対して、美智子妃はこの時点で早くも「平成」を先取りしていたのだ。
61年10月14日、皇太子夫妻は京都から富山県の高岡まで特急「白鳥」に乗った。この車内でも、美智子妃は皇太子と違う姿勢を見せる。
「美智子さまは沿道〔線〕の小学生たちに一々手を振っておこたえになった。石動(いするぎ)駅を通過するころには歓迎の人波もぐんと多くなり、美智子さまはお席を左側にお移しになって、日の丸の旗を振って歓迎する小学生たちに終始笑顔でおこたえになっていた」(「北日本新聞」61年10月14日夕刊)
昭和天皇と香淳皇后の行幸啓では、お召し列車が運転され、二人は御料車の席に座り、沿線住民から「奉迎」を受けることが多かった。だが美智子妃は、自分から沿線の人々に近づき、窓から手を振っている。これもまた「平成」を先取りする行為といえよう。
60年代後半以降の行啓では、福祉施設などで皇太子が美智子妃とともにひざまずき、車内でも二人で一緒に沿線の人々に手を振るようになる。美智子妃が始めたスタイルに、皇太子も従うようになるのだ。(文中敬称略)(放送大学教授・原武史)
※AERA 2019年4月29日-2019年5月6日合併号より抜粋