「書きたいことが書けなくなるシステムでは、本末転倒ではないですか?」

 そもそも所見は何のためにあるのか? 教育評論家の親野智可等さんは次のように説明する。

「数字の評価だけでは表せない部分を文章化して親に伝えるのが目的です。かつては子どものいいところも悪いところも書きましたが、今は励ましの意味合いが強くなっています」

 その点、前出の主観を省いた記述は目的を十分に果たせていないと、親野さんは指摘する。そんな内容でも所見は必要なのか。教師の過重労働が問題視されるなか通知表の作業は負担が重く、とりわけ所見の記述は手間がかかる。徹夜や休日作業もざらだ。

「成績の記録は、公的に記録し残さないといけない指導要録と、校長の裁量に任されている通知表がある。通知表のない学校も存在しますし、所見はやめようと思えばできます」(親野さん)

 実際にやめたケースはある。30代の男性教師が勤める関西の小学校では、校長の提案で昨年2学期の所見記入をやめた。猛暑の影響で運動会の日程がずれ、個別懇談会が12月に。児童の成果や課題は所見ではなく懇談会で伝える旨を学校便りで通知し、親からクレームが入ることはなかったという。

「管理職が通知表の作業の負担の大きさを理解していたのと、そうしたことに必要以上に時間をかけるより直接子どもに関わる授業準備などに重きを置くべきだという考えが根底にあったため実現しました」(男性)

「子どもにとって優先すべきことは何か」を念頭に、その目的をどう果たすか。親と教師双方にとってベストの方法を考えていくことが必要なようだ。(編集部・石田かおる)

AERA 2019年4月1日号