長崎は、16世紀後半、朱印船貿易が盛んで唐船は長崎をはじめ西日本各地に入港していた。17世紀前半、徳川幕府は、唐船の窓口を長崎だけに限定する鎖国政策に転換。唐船が大挙して長崎に来航した。

 当時長崎の町に滞在していた唐人は数千人。鎖国以前から長崎に居住していた唐人(住宅唐人)たちの中から唐通事が任命された。貿易拡大とともに唐通事の数が増え、通訳だけでなく、貿易業務や密貿易の取り締まり、監視、情報収集など広範になっていく。大通事、小通事、稽古通事など役職も仕事の軽重に応じて分けられた。林、彭城、頴川は、大通事を出す名門三家として歴史資料に出てくる。

「彼らは帰化して日本名を名乗る際、中国の出身地の名前をつけたのです」

 そう説明するのは、長崎中国交流史協会専務理事の陳東華氏。福建省出身の貿易商の4代目。陳のルーツを長年研究している。陳東華氏によると、陳の祖先は、古く河南省の潁川(えいせん※地名は「潁」となっているが姓には「頴」を用いたりしている)という土地にいたが、明の滅亡や戦乱などで中国各地に広がって住み着いた。福建省もその一つで、何百年もの時代を経て日本へと渡った人たちも多かった。出身地の福建省の村を陳東華氏が訪ねた時、中心部に先祖の位牌(いはい)を集めた祠堂(しどう)があり、「自分たちは潁川から来た」という意味の文言が書かれていた。

「帰化しても自分のルーツに誇りを持ち、代々語り継ぐために陳氏は皆、頴川としたんです。だから頴川は100%、陳です」(陳東華氏)

●五島には相当な頻度で、朝鮮などの船が漂着

 ただ、江戸時代二百数十年間にわたる唐通事の家系が書かれた『唐通事家系論攷』に私の祖父の家系の名前は出てこない。唐通事は世襲制で、江戸末期には、800人以上の唐通事がいたので、下級通事のことまでは分からなかった。

 祖父の生まれた五島・黄島に行ってみることにした。長崎港から五島・福江港まで距離約100キロ。高速船で1時間25分。そこから黄島まで約18キロ。小型旅客船で40分弱。

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