「陳さん世界大会はすごいよ」

 出発前に日本の華僑の人たちから聞いていたが、予想をはるかに上回るエネルギーに圧倒されっぱなしだった。

 私は華僑ではない。日本生まれで日本国籍を有する日本人だ。それがなぜ「陳さん世界大会」に参加したのか。

 ひょんなことから私の祖先が陳であることが“判明”したからである。

 話は16年10月にさかのぼる。長崎市の郷土史家で、元長崎市立博物館長の原田博二さんの東京での講演を聴きに行った時のことだ。テーマは「唐人屋敷と中国文化」。鎖国していた江戸時代、幕府は長崎を通してオランダ以外に、中国とも貿易をおこない、取引高はオランダの3倍以上に達した。

●突如降ってわいた祖先との出会いに戸惑い

 唐通事の話になった。唐通事とは中国語の通訳のことだ。彼らは中国からの渡来人だった。著名な三家があった。その一つ林家は林(りん)氏の出である。劉氏は彭城(さかき)と名を変え、陳氏は「えがわ」と名乗る。表記は「江川」ではなく「頴川」。その瞬間、ひっかかるものがあった。「頴川」は、母方の祖父の名字ではなかったか。母の旧姓は山下だが、祖父は、幼少期に山下家に養子に来たということを、以前ちらりと聞いていたのだ。元の姓が確か「えがわ」だったはず。

 実家の母に電話した。記憶は正しかった。表記も「頴川」で間違いなかった。となると、私は唐通事の家系なのか。「はあ?」。突如降ってわいた“ルーツ”との出会いに正直、戸惑った。

「証拠」の一つとなる資料があった。『五島黄島(おうしま)郷土誌』。302ページ。厚さ2センチ。編纂(へんさん)は1994年。黄島は、五島列島の福江島の南南東に浮かぶ周囲わずか4キロメートルのけし粒のような島である。祖父がその島の出身という話を聞いたのも最近のことだ。

 島の歴史や編纂時の全島民の家系図も網羅されていた。祖父の名前は住太郎。養子となった山下長助の家系図には私の母と母のきょうだい計7人の名前。それぞれ配偶者の名前も明記されていた。住太郎の名前の横に、「頴川伊之助2男」と記載。頴川家のページを見ると、住太郎の名前があり、横に「山下長助養子」とある。母は、母親(住太郎の妻)や山下の育ての母からも、「住太郎は頴川からの養子」と聞かされていた。祖父が頴川家の血筋であることは確かなようだった。だとしても唐通事と同じ姓の人間がなぜそんな小島にいたのか。そもそも唐通事とはどんな人たちだったのか。

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