小野薬品工業副社長 粟田浩(57)さん/1983年、京都大学農学部卒業。同年、小野薬品工業に入社。開発企画部部長、取締役開発本部長などを歴任し2012年から現職(撮影/大野洋介)
小野薬品工業副社長 粟田浩(57)さん/1983年、京都大学農学部卒業。同年、小野薬品工業に入社。開発企画部部長、取締役開発本部長などを歴任し2012年から現職(撮影/大野洋介)
オプジーボ開発の歴史(AERA 2018年12月24日号より)
オプジーボ開発の歴史(AERA 2018年12月24日号より)

 のちにがんの「第4の治療法」となる大発明も、当初は相手にされなかった。 抗がん剤メーカーでなかったからこそ成功した開発秘話を明かす。

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 評価を受けるどころか、製薬企業の社員にこう諭された。

「こんなことをやっていると、会社を潰しかねませんよ」

「こんなこと」とは、手術、放射線、抗がん剤に続く「第4の治療法」としてがん治療に革命を起こした免疫療法のことだ。

 今年のノーベル医学生理学賞に、本庶佑(ほんじょ・たすく)・京都大学特別教授(76)が選ばれた。がん細胞と結びついて免疫細胞の働きを抑える分子「PD-1」を発見し、免疫療法薬「オプジーボ」を開発したことが評価された。本庶さんと開発を続け、オプジーボを世に出したのが、中堅製薬会社の小野薬品工業だ。副社長の粟田浩さん(57)が振り返る。

「今でこそ免疫の力でがんを治す薬がほかにも出てきましたが、免疫療法はうさんくさいとしか思われていませんでした」

 本庶さんがPD-1を発見したのは1992年。2014年9月に悪性な皮膚がんの一つである悪性黒色腫(メラノーマ)の治療薬として発売されるまでの22年間は苦難の連続だった。

「マウス実験でPD-1に抗がん作用があるとわかったのが02年。経営陣としては既に十数年間投資しており、マウス実験で効果が出たといっても、薬として世に出せるのは1%以下。さらには、過去に抗がん剤を出した経験もなく、創薬に必要な抗体製造技術がなかった」

 それでも、PD-1の研究プロジェクトチームが経営陣に粘り強く訴え、「抗体製造可能で共同開発してくれる企業があれば」という条件付きで開発へのGOサインが出た。背景に同社に根付くチャレンジ精神がある。

 70年代、小野薬品工業はプロスタグランジン製剤(陣痛誘発剤)の開発に世界で初めて成功し「世界の小野」として注目を集めた。61年に国民皆保険制度が始まったのを契機に、当時の小野雄造社長が大衆薬から医療用医薬品へと舵を切っていた。目をつけたのが、プロスタグランジンだった。後にノーベル医学生理学賞を受賞するベルグストローム教授から「こんな不安定なものを製剤化するのは困難だ」と指摘を受けるも諦めず、開発を進めた。その精神が今も引き継がれている。

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