「辺野古の埋め立て承認の取り消しまでは頑張りたいと話していましたが、もう体がもたないことは本人も感じていました。だから、住んでいた知事公舎に置いてある大量の本や資料を捨て始めたのです。家族がやめてと言っても『君たちにはできないから』と言って聞いてくれませんでした。残された家族が遺品に手を付けられない心情になることを知っていたのです。その通りで、私はいまだに翁長の習字の練習紙さえ捨てられません」

 望みをかけて民間療法も試したという。

「抗がん剤が強い副作用が出てあまり使えなかったこともあり、民間療法と呼ばれる血液クレンジング、高濃度ビタミン療法など周囲が勧めるものをいろいろやりました。本人も『楽しくがんと闘いたいから、勧めてくれるものはとりあえず試そう』と明るく言ってくれ、弱音は一切吐きませんでした。それでも死と向き合って自分がどう変わってしまうのか分からない部分があったのでしょう。子どもたちには『これからいろんなことが起こって違うお父さんになるかもしれないけど、それは本当のお父さんじゃないよ』と病床でよく話していたのを覚えています。唯一の弱音は亡くなる2日前。もう歩ける状態ではない時に私が支え損ねて転んだとき。私の肩に頭をのせて『苦しい』と言ったことでした」

(ジャーナリスト・桐島瞬)

※AERA 2018年10月22日号より抜粋